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龍神に会いに行く(3)江ノ島の龍神から授かった家紋

龍の伝説

 

寺社にある彫刻や絵画をはじめとして、気をつけて見ると私たちの身近に様々な龍の姿やデザインを発見することができます。

 
奈良時代から平安時代、そして中世へと時代が進むに従って、中国から渡って来た龍の一般的な姿がより明確になっていったということもありますが、それ以上に日本人にとって龍の姿は、災いを除き繁栄を導く瑞祥(何か良い事が起こるしるし)の代表的なシンボルと考えられてきました。

 
そんな龍のデザインについて、江ノ島の弁才天にまつわる興味深い伝説があります。

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江ノ島の弁才天と北条氏の三つ鱗伝説

日本人であれば、どの家にも家紋があると思います。
家紋はその家(一族)の家系など出自を表す日本固有の文化で、平安時代の武士の台頭とともに、その家の名字(家名)を表す紋章として生まれてきたものだそうです。

 
ですからそれ以降の武家の時代には、家紋はとても大切なシンボルデザインでした。

 
鎌倉幕府が誕生し、その執権となった北条氏の家紋は「三つ鱗(みつうろこ)」と言って、二等辺三角形が3つ組み合わされ全体で大きな二等辺三角形を構成する、とてもシンプルなものです。
北条氏は桓武平氏の系統ですから、本来は揚羽蝶が家紋なのでしょうが、なぜ三つ鱗となったかについては、「太平記」にこんな伝承があるのです。

 
1190年(建久3年)に源頼朝が鎌倉幕府を開きますが、それに尽力した北条時政が子孫繁栄を願って江ノ島の岩屋に参籠しました。
その満願の夜、時政のもとに弁才天が現れ、願いを聞き入れることを約束します。
そして弁才天は大蛇(龍蛇神)の姿となって海に消えて行ったのですが、そのあとには3枚のウロコが残されていました。
時政はそのウロコを、北条家を繁栄に導くしるしとして家紋としたのだと言います。
その後北条家は鎌倉幕府を実質的に支配し、全国の武家の頂点に立つ家として繁栄しました。

 

 

戦いの勝敗を引両紋に託した武将

時代は下って1331年(元弘元年)、後醍醐天皇を中心として鎌倉幕府を倒そうとする「元弘の乱」が起こります。
播磨の国(兵庫県)の有力武家である赤松則村(赤松円心)も挙兵し、北条氏と戦うことになりますが、そのときの赤松氏の家紋は「巴紋(左三つ巴)」でした。
この紋は、よく太鼓に描かれる図案として用いられ、3つの勾玉のようなデザインが渦巻くように組み合わされています。
そこから、水が渦巻く様子とも解釈されていました。

 
さて赤松則村は北条氏と戦うにあたって、「水を表す巴紋では、やはり水に関わる龍を表す三つ鱗の北条には勝てない」と、「左三つ巴」の上に「二つ引両」を加えました。
この「引両紋」の引両とは、幔幕の「幕(まく)」の横長の白布と黒布が交互に縫い合わされたデザインから、黒布の部分を横長の太い線で表したと言われています。
しかし別の説では「両=龍」であり、疾走する龍を1本の太い線でシンプルにデザイン化し、それを横に2本並べたものであるとも言われています。

 
つまり赤松氏は、水を表す巴紋に龍を表す引両紋を加え、自分の家の家紋をより強くして北条氏に勝とうとしたのだと言うことです。
そして赤松氏は見事勝利し、建武の新政では播磨守護となりました。

 
この伝承の真偽はわかりませんが、武家が龍神の加護を求める気持ちが大きかったのが窺える話です。

 

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