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龍神に会いに行く(4)都の真ん中の龍神が棲む池

龍の伝説

 

日本の各所にはいくつもの龍にまつわる伝説がありますが、そのなかでも最も良く知られた話は、京の都にある「神泉苑」の龍神と空海の伝説ではないでしょうか。

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神泉苑は平安京造営当時から現存する唯一の遺蹟

神泉苑というのは、平安京の都ができたときに造られた天皇御遊のための庭園(禁苑)で、大内裏に接していました。
また神泉苑は、平安京造営当時から現存する唯一の遺蹟なのだそうです。

 
この庭園は、都の造営以前からあった湖沼の一部を利用した池を中心として造られ、常に清泉が湧き出ていることから神泉苑という名称がつけられました。
特に清泉が湧く池は、どんなに日照りのときでも水が涸れることがないので、龍神が棲むと考えられていたのです。

 

 

空海の雨乞い対決

さて、平安時代初めの824年(天長元年)に、都の一帯は大旱魃(かんばつ)に見舞われました。
朝廷は祈雨の修法を東寺の空海に命じて、神泉苑で行われることになりました。

 
しかしこのとき、何事にも空海に対立していた西寺の守敏僧都が現れて、自分は空海の先輩でもあり雨を降らせる「請雨経法」にも長じているから、先に修法を行いたいと申し出ます。
朝廷がこれを許すと、7日目の結願の日に雷鳴とともに雨が降ったので人々は感嘆しました。
しかしこの雨は、洛中にだけ降り旱魃に苦しむ洛外には降りませんでした。

 
この結果から次に空海が修法を行いますが、7日経っても一向に雨が降りません。
これはおかしいと空海が調べてみると、守敏が日本の龍たちを瓶のなかに封じ込めていたのです。

 
そこで空海は、天竺(インド)の八大龍王のひとり「娑伽羅(さーがら)」の三女である、「善女龍王」に雨を降らしていただくように請い願いました。
すると空は黒雲に覆われ、雷鳴は鳴り響き、あっという間に豪雨となって三日間続き、洛中洛外の人々はうるおい旱魃を免れることができました。

 
これ以来、神泉苑の池は善女龍王の棲むところとなり、祈雨の修法を行う場所になったということです。

 

 

神泉苑の龍穴

神泉苑には「龍穴(りゅうけつ)」があると言われています。
龍穴とは大地の「気」が流れる「龍脈(りゅうみゃく)」が向かう先であり、この龍穴から気が吹き上がるとされました。
日本の古い神社は、この龍穴のあるところに建立されているとも言われます。
大地の気が大きなエネルギーであり、それが龍とするならば、龍穴はまさに龍の出入りするところ、ということでしょうか。

 
空海以来、神泉苑は祈雨の修法の場所となりましたが、朝廷の陰陽寮では祈雨のために神泉苑で「五龍祭」という行事を行うことが定例となりました。
また空海の真言宗では、神泉苑は祈雨の道場となります。
龍穴が神泉苑のどこにあるのかは、この祈雨の道場の弟子でないと教わることはできなかったのだそうです。

 

 

涸れてしまった神泉苑

さて、平安時代末期になると京の都は乱れ、神泉苑を囲む四方の壁も崩れて外部の世俗に侵され、不浄になってしまったと言われています。
神泉苑を管理する東寺は何度も壁の修復を要請しますが、南北朝時代を舞台に書かれた「太平記」には、「神泉苑の池は涸れてしまっており、恐らくは善女龍王は他へ行ってしまったのではないか」と記されています。

 
元々は広大な敷地を持ち、かつ清浄な場所であった神泉苑だからこそ龍神の棲む場所だったわけですが、世俗に侵され戦乱にまみれ、もう龍神はいないのではないかと危惧されていたのです。

 
神泉苑から龍神はいなくなってしまったのでしょうか。
また再び美しく整備された現代の神泉苑には、果たして龍神は戻って来ているのでしょうか。

 

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