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仏教の伝来とともに日本にやってきた鬼と、お酒が好きな「酒呑童子」

鬼伝説

 

鬼という妖怪は、日本人にとってとてもなじみの深い存在です。ここでいま鬼を妖怪と書きましたが、はたして妖怪とひとくちに言っていいのか、古代からの記述や日本各地に遺る伝説、物語を見て行くと、単に妖怪というくくりには納まりきらない、とても様々な姿や意味合いを持った存在に思えてきます。

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鬼にも分類がある?

歌人で「鬼の研究」の著作がある馬場あき子さんは、日本の鬼を5種類に分類しています。

 
1.神道系、民俗学上の鬼:祝福に訪れる祖霊や地霊
2.修験道、山岳宗教系の鬼:山伏系の鬼や天狗
3.仏教系の鬼:邪鬼、夜叉(やしゃ)、羅刹(らせつ)、牛頭鬼(ごずき)など
4.人鬼系の鬼:盗賊や放逐された者、らち外の者
5.変身譚系の鬼:怨恨や憤怒などによって鬼に変身してしまった者

 
このほかにも鬼の起源や分類としては様々な説がありますが、基本的にはこのような存在が鬼として認識されてきたようです。
この5種類の分類で言うと、それぞれに日本の歴史のなかで人々に知られ関わり合い、現在の鬼の一般的なイメージへとつながって行くのだと思われますが、そのなかで明らかに日本の外から伝わってきたのが「3.仏教系の鬼」です。

 

 

古代インド神話の鬼、「夜叉」と「邪鬼」

仏教は、公式には6世紀の半ばに日本に伝えられたとされています。
仏教はもちろんインドが発祥の宗教。仏教のなかには、ですからインドの古代の神々も組み込まれていて、例えば「夜叉」は古代インドの神話に登場する鬼神(闇の神)の総称ですが、後にお釈迦様に調伏されて護法善神(仏法を守護する天界の神)として神の戦士(神将)となりました。現代でも、とても怖い存在を「夜叉のようだ」という言い方で表す場合がありますが、この場合は人を食べたという鬼神としての夜叉の側面が強調されているわけです。

 
この夜叉の家来に「邪鬼」という鬼がいます。この邪鬼、かつては鬼神であったときの夜叉の神々の命令を受けて世界の闇を飛び回り、人間に様々な災いをもたらしていました。
しかし、天界に住む仏法の守護神である「四天王」に調伏されて踏みつけられてしまいます。要するに、四天王の家来となったということでしょうか。

 

 

邪鬼は代表的な鬼の姿やイメージをつくってきた??

この邪鬼の姿は、現代の私たちも様々なところで見ることができます。なぜなら、お寺に四天王の像があったとしたら、だいたい邪鬼はその四天王に踏みつけられているからです。
有名な四天王像としては、例えば奈良時代の天平期につくられた「東大寺戒壇院」の国宝「四天王立像」があります。持国天、多聞天、広目天、増長天の四天王にそれぞれ踏みつけられている邪鬼は、確かに顔は恐い顔をしてはいるのですが、身体は童子のようで小さく、なんとなくユーモラスな感じもします。

 
この東大寺よりも古いお寺にいる邪鬼としては、7世紀初めの飛鳥時代に創建された世界最古の木造建築である法隆寺金堂に日本最古の四天王像に踏みつけられる邪鬼がいます。この邪鬼は牛の顔の「牛頭(ごず)」や一本角の「一角」の姿など、私たちがイメージする鬼の顔や姿とは大きく異なっています。

 
それでは、邪鬼がいかにも鬼らしい姿になるのはいつでしょうか。
奈良の興福寺に国宝「木造天燈鬼(てんとうき)・龍燈鬼(りゅうとうき)立像」という2体の邪鬼の像があり、これは四天王に踏みつけられていた邪鬼を独立させ、仏前を灯りで照らす役目をさせている姿を刻んでいます。
さすがに虎のパンツははいてはいませんが、いかにも恐ろしい顔と頭の角や筋骨逞しい身体など、まさに鬼にふさわしい姿をしています。この立像は鎌倉時代の作ですから、平安時代を経て鎌倉時代には、仏教に登場する鬼も今日につながる代表的なイメージの鬼の姿となっていることがよくわかります。

 
次にご紹介するのはお酒が好きな鬼の話です。

 

日本の鬼史上最強の鬼!?酒呑童子

大江山の3つの鬼伝説のうち、最も有名なものが「酒呑童子の伝説」です。
酒呑童子の伝説は、単に大江山を舞台とした鬼伝説であるという以上に、中世の日本(京の都)において最も恐れられた鬼を退治する物語として、後世まで伝えられてきました。
初めて酒呑童子の物語が登場するのは南北朝時代(14世紀)の「香取本大江山絵詞」で、その後には能の謡曲「大江山」で登場し、江戸時代になると御伽草子や読本、黄表紙などで一般にも広く知られるようになり、歌舞伎の演目ともなりました。
明治以降は小学校の教科書に登場し映画にもなるなど、鬼の大親分としては日本の鬼史上最も有名かつ最強の鬼であるといっても過言ではありません。

 

 

酒呑童子の伝説とは

酒呑童子の物語とは、簡単にご紹介するとこんなお話です。
平安時代中期の一条天皇の頃(10世紀終盤)、世の中が乱れていた京の都から姫君が次々にさらわれ、陰陽師である安倍晴明が占ったところ大江山に住む酒呑童子を首領とした鬼の一団の仕業であることがわかりました。
帝は、源頼光を頭とする藤原保昌や坂田金時(金太郎)ら四天王をはじめとした6人を、酒呑童子討伐に差し向けます。

 
源頼光らは山伏の姿に身をやつし、途中、翁の姿をした住吉・八幡・熊野の神々から「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)」という毒の酒を与えられ、大江山まで導かれます。酒呑童子は頼光たちを血の酒と人肉でもてなしますが、頼光は毒の酒を酒呑童子と手下の鬼たちに飲ませ、酔いつぶれ自由を奪ったところを討ち果たし、姫君たちを救い出して京の都へと帰ります。

 

 

各地に遺る酒呑童子の出生伝説

大江山を本拠地としていた酒呑童子ですが、その出生伝説は各地に遺されています。
例えば越後国(新潟県)に遺る伝説では、桓武天皇の皇子桃園親王が流罪となってこの地に流されたとき、その従者の砂子塚城主、石瀬俊綱の妻が戸隠山に参拝祈願して授かった外道丸という子が酒呑童子になったという話があります。

 
外道丸は三年間も母の胎内にいてようやく生まれ、幼くして手のつけられない乱暴者だったので、国上寺というお寺に稚児としてあげられます。外道丸は美貌の持ち主だったので多くの娘が外道丸に恋しますが、その娘たちが次々に死ぬという噂が立ちます。外道丸が娘たちからもらった恋文を焼き捨てたところ、怪しい煙が立ちこめ気を失い、しばらくして気がつくと外道丸は鬼の姿に変わってしまっていました。外道丸は、戸隠山からさらに大江山へと移り住み酒呑童子となったということです。

 

 

比叡山の稚児伝説

もうひとつ、酒呑童子が近江国(滋賀県)の伊吹山に生まれたという伝説をご紹介しましょう。
比叡山の延暦寺に不思議な術を操る稚児がいましたが、この稚児は近江国の井口という土地の長者須川殿の娘である王姫の子であり、伊吹山の神=伊吹大明神との間の子であるというのです。3才のときから酒を飲んだので酒呑童子と呼ばれ、10才のときに比叡山の最澄=伝教大師のもとに稚児として出されていました。

 
ある日、帝が新しい内裏に移った祝いに鬼踊りをすることになり、比叡山の僧侶三千人が鬼の面をつけて都に繰り出します。酒呑童子は特に自分用に精魂込めた鬼の面を作成してつけ人気となりますが、比叡山に帰って面を取ろうとしてもなぜか顔の肉にくっついて取れません。

 
伝教大師は酒呑童子を追い出し国に帰しますが、故郷でも見捨てられ、山々を点々として大江山を住処としたということです。
越後の出生伝説では、戸隠の山の神の子であることが暗示されていますが、こちらでは伊吹山の神の子とされて、どちらも山の土着神を親に持ち、優れた美貌や能力を持った稚児となりますが、出自や能力が一般の人とは違うことから鬼になってしまうという共通点を持って語られています。

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