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希代の陰陽師・安倍晴明、現る。代表的な占いは13例のみ?

安倍晴明

10世紀の後半、平安時代の中頃に活躍した不世出の陰陽師・安倍晴明の、生涯やその本当の姿は謎に包まれています。
信頼のおける歴史書などに記された安倍晴明の足跡はわずかで、例えば陰陽師の代表的な仕事ともいえる占いの記録は、はっきりとしたものでは13例にしか過ぎません。

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なぜここまで語り継がれているのか?

それでは晴明がなぜ後世に、歴史上最も強いチカラを発揮した陰陽師として伝えられて行ったのでしょうか?
それは陰陽師という存在が、貴族社会の表側、政治や軍事の世界で世に知られる人たちではなく、人々や社会の裏側で活躍する存在に他ならないからでしょう。公式の記録には残らないような事物を扱うのが陰陽師。官人(朝廷の役人)としての陰陽師や彼らが所属する陰陽寮が、7世紀の飛鳥時代に設立された時より言ってみれば天皇の秘密機関であったことを忘れてはいけません。

 
しかし安倍晴明は、彼が生きた時代の後になっても伝説や物語として語り継がれ、不思議に彩られたエピソードがわずかながらも残されました。事実とも作られたお話とも断定できない安倍晴明の伝説のなかに、この世の表側と背中合わせの別の世界とをつなぐ、希代の陰陽師・安倍晴明の姿が見えて来るのではないでしょうか。

 

 

安倍晴明、初めて記録に登場する

遣唐使の一員として唐に留学した「阿倍(安倍)仲麻呂」の末裔を父に、信太の森に棲む白狐の「葛の葉」を母として生まれたという安倍晴明は、やがて京の都で当時最高の陰陽師であった「賀茂忠行」、またはその息子で陰陽寮の長官である陰陽頭(おんようのかみ)になる「賀茂保憲」の弟子になります。
しかしその出生や少年・青年時代の様子ははっきりとせず、謎のままであることは別の記事でご紹介しました。

 
初めて公式の記録に登場するのは、「本朝世紀」という平安時代末期に鳥羽上皇の命で編纂された歴史書で、その天徳4年(960年)の記事に、安倍晴明が先の内裏焼失によって失われていた「節刀」について、朝廷に勘申(かんじん)したというものでした。このとき晴明はまだ天文博士を目指す「天文徳業生」で、博士の助手といったところかと思われます。

 
しかし助手の立場でありながら勘申、つまり天皇と朝廷に対して報告を行ったというのは、天文博士や陰陽頭からその実力を認められていたということでしょう。
ちなみにこの960年は師匠である賀茂忠行が亡くなった年で、晴明と賀茂保憲という2人の大陰陽師の時代が始まった年と言えるのかも知れません。

 

 

陰陽道第一者・安倍晴明

晴明はやがて天文博士となります。
天延年間(973年から975年)の官人陰陽師の記録では、「陰陽道第三者」となっています。この「陰陽道第何者」というのは、20人ほどいた陰陽寮の陰陽師のうちの実力が高い者の順位を示すもので、つまり安倍晴明は公的には第3位だったということです。ちなみにこの時の陰陽道第一者は賀茂保憲で、第ニ者は陰陽博士の「文道光」という人でした。

 
10年後の寛和年間(985年から986年)には、第ニ者から第一者になりました。以降、天文博士の職を譲った後も陰陽道第一者であり続けます。
一条天皇の時代(在位986年から1011年)には、天皇直属の陰陽師である「蔵人所陰陽師」にこの陰陽道第一者が就いたということですから、安倍晴明は朝廷の役人である陰陽寮を引退した後も、更にこの時代最高の天皇直属陰陽師として活躍していたのです。

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