> >

天叢雲剣から草薙剣へ(2)ヤマトタケルの危機を救った神の剣

刀剣伝説

 

伊勢神宮で倭姫命(やまとひめのみこと)から「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を託され、東国の征討に旅立った日本武尊(やまとたけるのみこと)。やがて駿河国(静岡県)に到着します。(古事記では相模国(神奈川県))
ここで初めて日本武尊は、東国の賊に襲われてしまいます。

スポンサードリンク

 

 

草薙剣となった剣

日本武尊を前にした駿河国の賊は、降伏して従ったように見せかけます。そして「この野には大鹿が多くいます。おいでになって狩りをされるのはいかがですか」と言う駿河国の賊の言葉を信じ、日本武尊は野に入って狩りをすることになりました。

 
しかしそれは、賊の仕掛けたワナだったのです。賊は野に火を放って、火攻めにより日本武尊の一行を殺そうとしました。これに気づいた日本武尊は、「もしものときに開けなさい」と倭姫命から渡された袋を開けます。そこには火打石が入っていました。

 
日本武尊は天叢雲剣を抜いて周りの草を薙ぎ斬り、火打石でその草に火を点けます。これは迫る火を逆に迎える迎え火で、この迎え火の勢いは敵に向かって焼きつくし、見事勝利を収めたのでした。
これによって天叢雲剣は、「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」と呼ばれることになります。またこの敵を焼き滅ぼした場所は、「焼津(静岡県焼津市)」と名付けられました。

 

 

日本武尊の東征

このあとも、日本武尊の一行には様々な困難が立ちふさがります。
相模国から現在の東京湾を船で渡って上総国(千葉県)の房総半島に行こうとする日本武尊に、「走水の海(横須賀市)の神」という海神が暴風と大波を起こして、一行の乗る船を沈めようとします。このとき、日本武尊に従っていた妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)が、「私が皇子の代りに海に入りましょう」と言って海に飛び込みます。日本武尊の身代わりに弟橘媛が海神に身を捧げたことによって波は穏やかとなり、船は無事に上総国に到着することができました。

 
上総国から陸奥国(東北地方)へと行き、蝦夷の支配地へ入った日本武尊は蝦夷を服従させ、更に相模国に戻って「足柄坂の神」を打ち倒し(古事記)東国を平定します。その後、甲斐国(山梨県)から信濃国(長野県)に入って「信濃の山神」を倒し(日本書紀)、東国征討を終えて尾張国(愛知県)へと戻ります。

 
尾張国では、この地を治めている尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の娘である宮簀媛(みやずひめ)を娶り、長く滞在することになりました。

 
このように日本武尊は、大和を出発し伊勢を経て、駿河国・相模国から上総国へと渡り、北上して東北へと至り、再び関東に戻って甲斐国から信濃国へと巡って尾張国へ戻るという、とても長い東征の旅を行ったわけです。

 
しかし古事記・日本書紀に記されている限りでは、日本武尊が天叢雲剣=草薙剣を振るったのはただの一度だけ。それも神や人を斬ったのではなく、駿河の野の草を薙ぎ斬ったのみでした。足柄坂の神や信濃の山神を倒したのも剣ではなく、「蒜(ひる)」(野生のネギやニンニクなどのこと)という草でした。

 
それは天叢雲剣が、神が宿る象徴としての日本武尊を護る剣であり、実際に血に穢して敵を斬り倒す剣ではなかった、ということなのかも知れません。

このエントリーをはてなブックマークに追加


スポンサードリンク
スポンサードリンク

Comments are closed.