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古代王国「邪馬台国」~未だ解明されない日本の歴史最大の謎


 
歴史には様々な謎が隠されています。誰もが知っているような歴史のなかの出来事や事柄にも、いや良く知られているからこそ、多くの謎が潜んでいるのです。

日本の歴史のなかでいまだに解明されていない最大級の謎といえば、明智光秀の謀反で織田信長が暗殺された本能寺の変や幕末の龍馬暗殺などが有名ですが、その存在自体が謎なのが古代の「邪馬台国」と女王「卑弥呼」です。
多くの方が日本の古代には邪馬台国という国があり、卑弥呼という女王がその国を治めていたという話をご存知かと思います。しかし、邪馬台国は本当にあったのか。もし本当にあたったとして邪馬台国はどんな国で、卑弥呼はどんな人物だったのか。はっきりとした真実は、どなたにもわからないのではないでしょうか。

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邪馬台国をめぐる謎は、この国がどこにあったのかをはじめとして、長い年月にわたって論争を巻き起こしてきました。そして、これまでに数多くの説が唱えられましたが、その謎はまだ決定的に解明されてはいないのです。
邪馬台国の謎は、いつもわたしたちに古代へのロマンをかきたたせてくれます。邪馬台国とは何なのかをなるべくわかりやすくご案内すると共に、日本の古代に秘められた謎を辿ってみることにしましょう。

 

わずか2000文字足らずの中国文献だけが邪馬台国を記す

邪馬台国のことが記されているのは、一般的に『魏志倭人伝』として知られている中国の史書のなかの一節です。正しくは、「魏」、「呉」、「蜀」という3つの国が同時にあった「三国時代」(紀元220年から280年まで)の歴史について書かれた『三国志』のなかの「魏書」にある「東夷伝倭人条」のことで、魏志倭人伝とはそれを略したものです。三国志が成立したのは、三国時代が終わって西晋が中国を統一した280年以降とされています。

さてこの魏志倭人伝ですが、37万字にも及ぶ三国志のなかでわずか2000文字足らずのもの。
そこに当時の日本(「倭国」と「倭人」)のことが記され、邪馬台国が登場するのです。たったそれだけの文字数の記述に出現した邪馬台国が、その後大きな論争を巻き起こし、現在に至るまで解明されていない謎として引き継がれてきたのです。

 

魏志倭人伝のなかの邪馬台国

魏志倭人伝に記述された倭国と倭人、邪馬台国については、みなさんも聞いたり読んだりしたことがあるかも知れません。
そこには、当時、魏の領土であった朝鮮半島の郡(「帯方郡」と考えられている)から邪馬台国に至る道程、倭国の地理や国、政治の様子、倭人の風俗、そして邪馬台国の女王である卑弥呼についてなどが書かれています。それぞれは短い記述ですが、倭国と倭人、邪馬台国についてまとまって文献に記されたのはこの魏志倭人伝が初めてであり、またその後の文献で邪馬台国の名前は出て来ますが、具体的にはっきりと記された唯一のものと言えます。

それでは魏志倭人伝には、邪馬台国のことがどう記されているのでしょうか。
倭国はおよそ30ヵ国から成り立っていて、それらの中心に邪馬台国があり、卑弥呼が治めていたとされています。もともと倭国は男性の王が治めていたのですが、長期間に及ぶ争乱が起き、卑弥呼を女王として共立することによってその争乱は収まったと言います。
卑弥呼は「鬼道」(一般的にシャーマニズム的な呪術と解釈されている)によって人心を掌握し、夫はなく弟が補佐して国を治めていました。女王になってからは人に会うことはなく、ひとりの男性がその世話や取り次ぎをし、1000人の侍女を持ち多数の兵士に護られていたそうです。

女王は238年(魏の年号で景初2年)に魏に使者を送り、皇帝から「親魏倭王」に任じられました。
247年には狗奴国との紛争が起こりますが、それが収まった後に卑弥呼は亡くなり、大きな墳墓が造営されます。邪馬台国には男王が立てられましたが、人々がこれに服さなかったために内乱が起き、卑弥呼の親族であった13歳の「壹與(台与)」という少女が新たに女王となったと言います。

壹與は3世紀半ばに、魏に替わって成立した晋に使者を送りますが、それを最後に5世紀まで150年近くもの間、倭国の記述は中国の文献に現れることはありません。このように3世紀にぽつんと中国の史書に登場することも、邪馬台国の謎を深めていくことになった理由なのかも知れません。

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