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大陰陽師・賀茂忠行とその弟子・安倍晴明

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当時最高の陰陽師であった賀茂忠行、またはその息子の賀茂保憲の弟子となった安倍晴明は、どんな少年または青年だったのでしょうか?

それを知るお話が、『今昔物語』の有名な説話となって伝えられています。今昔物語は平安時代末期の12世紀初めから半ばにかけてまとめられたもので、安倍晴明が亡くなった寛弘2年(1005年)からは100年以上は経過しています。すでに晴明は史上最大の陰陽師として伝説化していたのだと思われますが、この説話はその異才ぶりをよく表すものとなっています。

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幼少より聡明で不思議な少年だった安倍晴明

今昔物語が伝える少年・青年時代の安倍晴明のエピソードは、こんなお話です。

 
今はむかし、天文博士の安倍晴明という陰陽師がいて、とても優れた人物であり、幼少期から陰陽道の大家の賀茂忠行の弟子となって、日夜学んでいました。

晴明がまだ若かった頃のある日、師匠の賀茂忠行が夜に下京の辺りに外出するので、そのお供をして忠行の乗る牛車の後を歩いていました。忠行は車のなかでよく寝ています。すると、前方から恐ろしい鬼たちがこちらの方に来るのが、晴明には見えました。

晴明は驚いて牛車に走り寄り、忠行を起こして鬼たちがこちらに向かって来ると伝えました。忠行はすぐに目を醒し、鬼たちが来るのを見て術法によって自分たちを鬼が見えないように隠し、無事にやり過ごしたのです。

このことがあってから、賀茂忠行は晴明を自分のそばから手放すことなく、陰陽道を瓶の水を移し替えるように伝授し、晴明はその奥義を得て公私にわたって重用されることになったのでした。

 

大陰陽師・賀茂家の弟子となる

このお話は、賀茂忠行が弟子の晴明に「見鬼の才」が備わっていることを発見し、それから晴明を特別の弟子として、自らが極めた陰陽道の奥義をすべて安倍晴明に伝授したのだというエピソードです。

見鬼の才とは、つまり鬼や物の怪などのこの世のものではない「もの」を、見ることができる能力ということ。忠行と晴明が夜の下京に外出して出会ったのは、鬼や妖怪が群れをなして夜に徘徊する「百鬼夜行」です。平安時代の京の都には多くの様々な鬼や妖怪が棲んでいたと考えられていて、普通の人にはその姿は見えないのですが、見鬼の才を持っていれば見ることができ、出会うと生命を取られるという百鬼夜行の危険から逃れられました。

優れた陰陽師になるには、鬼や妖怪を見分ける見鬼の能力は最も基礎となるものです。晴明にこの能力があることを発見した賀茂忠行が、それまで以上に晴明を弟子として大切にし、陰陽道のすべてを注ぎ込んだのは頷けることでした。

同じ今昔物語には、賀茂忠行の息子の保憲が幼少期に父が祓いを行うのについて行き、祓いの最中に供物に多くの鬼が集まっているのを保憲が見て忠行に告げたという、晴明と同じ見鬼の才のエピソードがあります。このことから保憲に陰陽道を伝授したということですから、賀茂忠行には息子の保憲と安倍晴明という鬼を見る能力を具えた2人の弟子がいたということになります。

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