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卑弥呼の時代~古代日本、激動の世紀

アマテラス
 
邪馬台国が存在したとされる古代とは、いつのことだったのでしょうか。
倭国や倭人、邪馬台国と女王卑弥呼について書かれている中国の歴史書『魏志倭人伝』の記述がある程度正しいのだとするならば、そのおよその年代を知ることができます。

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魏志倭人伝を書いたのは「西晋」(紀元260年から316年まで)に仕えた官吏の陳寿という人で、その前の三国時代の3つの王朝「魏」、「呉」、「蜀」のうちの魏を正統の王朝としながら、「魏書」、「呉書」、「蜀書」と3つの国を分けてそれぞれの歴史を扱いました。魏志倭人伝はこのうちの魏書に収められたものです。

それによると、30ヵ国もの国があった倭国では男性を王として70年から80年が経ていましたが、長期に及ぶ争乱が起こり、卑弥呼を女王として共立してようやく争乱が収まったとされています。この長期の争乱は、いわゆる「倭国大乱」だと考えられています。

 

中国の複数の史書に記された倭国大乱

この倭国大乱と呼ばれる争乱ですが、それが起こったという記述が魏志倭人伝以外にも中国の複数の史書に記されています。

三国時代の前の王朝である「後漢」(紀元25年から220年)の史書『後漢書』の「東夷列伝」には、桓帝と霊帝の治世のとき(146年から189年)に倭国が何年も大いに乱れ、卑弥呼が共立されたと記されています。
また時代は下りますが、南北朝時代に江南にあった「梁(りょう)」(502年から557年)の史書『梁書』の「諸夷伝東夷条」にも、後漢の霊帝の光和年間(178年から184年)に倭国に乱があり、卑弥呼が共立されて収まったという記述があり、北朝の史書『北史』やその後の「隋(ずい)」(581年から618年)の『隋書』にも同様の記述があります。

これらから、倭国大乱は紀元150年頃から紀元180年前後の頃に起こり、184年から189年頃には卑弥呼が邪馬台国の女王となったということのようです。

 

卑弥呼が亡くなったのはいつ?

魏志倭人伝によれば、中国の年号で景初2年(238年)に卑弥呼は初めて魏に使者を送り、「親魏倭王」の仮の金印と銅鏡100枚を贈られたとされ、正始8年(247年)頃には亡くなり、大きな墳墓が造営されたということです。つまり卑弥呼は、184年から189年頃より247年頃まで邪馬台国の女王の座にあったとされるわけで、その期間は60年以上にも及ぶというわけです。
魏志倭人伝には、卑弥呼が女王となったときには「既に年長大」、つまりある程度の年齢となっていたが夫は持っていなかったと記されています。古代のことですので、それが何歳ぐらいであったのかは良くわかりませんが、男王を挟んで卑弥呼の後を継いだ「壹與(台与)」が13歳の少女で女王になったとされますから、それよりは当然年長で、仮に20歳ぐらいだとすると80歳まで女王であったことになり、この当時としては大変長生きだったのではないでしょうか。

 

卑弥呼の時代は弥生時代から古墳時代へと移る激動期!?

日本の歴史を考古学的に見ると、この倭国大乱から女王卑弥呼に至る時代は、ちょうど弥生時代が終わり古墳時代へと移る頃にあたります。弥生時代の各期の年代については諸説があるようですが、最終盤である後期が紀元50年頃から3世紀の半ばであるとすると、倭国大乱と卑弥呼が女王になった時代は、この弥生時代後期ということになります。

そして卑弥呼がなくなったと思われる247年頃は、まさに古墳時代(3世紀中頃から7世紀頃)が始まった時代。「前方後円墳」という日本独特の墳墓が日本全国に広がって行く時代の始まりであり、卑弥呼はその頃に大きな墳墓に埋葬されたのでした。

つまり、倭国には弥生時代の後期には30ヵ国もの国があって、大きな争乱が長期にわたって起こり、女王卑弥呼が共立されて中国(魏)など外国と外交を行い、古墳時代の始まりには大きな墳墓(=それは大きな力の象徴でもある)に埋葬されたということで、邪馬台国と卑弥呼はまさに時代が移り変わる激動期に存在した、ということになるのかも知れません。

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