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安倍晴明の出生の地はどこ?有力な3つの説を考察する!


 
安倍晴明がいつ誰の子として生まれたのかについては、「安倍保名」という人と「葛の葉(くずのは)」という白狐との間に生まれたとする「葛の葉伝説」が有名です。

生まれた年は、安倍家の系図などで伝えられる没年から推定した延喜21年(921年)という説がありますが、葛の葉伝説では村上天皇の時代(946年より967年まで)の頃とされ、天慶7年(944年)とされるものもあります。そうだとすると20年以上も違ってきて、天文博士を目指す「天文徳業生」という立場で初めて記録に登場する『本朝世紀』の天徳4年(960年)には、10歳代の少年ということになるかも知れません。

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少年時代の安倍晴明の謎についてはまた別の記事に機会を譲るとして、今回は出生地がどこなのかという謎についてです。

 

大阪・茨城・香川の3ヶ所にある出生地説

葛の葉伝説では、安倍晴明が生まれたのは摂津国(大阪府・兵庫県)の阿倍野の里であるとしています。阿倍野の里は現在の大阪市阿倍野区のことで、この地は古代に豪族の阿部氏が領していた土地であるとされています。阿部氏とは後の安倍氏のことで、また安部、阿部といった名字や阿閉(あへ/あつじ)氏は、すべて同族と言われています。(そうではないという説もあります)

安倍氏の謎については、これもまた別の機会に触れたいと思いますが、晴明誕生の阿倍野の里説はその土地の名称や来歴からしても頷けるものがあります。生誕の地と言われる場所には「安倍晴明神社」があって、寛弘2年(1005年)に一条天皇の命で創建されたと言われます。この年は安倍晴明が亡くなったとされる年で、境内には「晴明公産湯井の跡」という晴明(童子丸)が生まれた時に使ったという産湯の井戸が再現されています。

このように、安倍晴明の出生地としては大阪の阿倍野の里が有力なのですが、じつはそれ以外にも茨城県と香川県にも出生地説があるのです。

 

常陸の国に生まれた安倍の童子

後世に安倍晴明が編纂したと伝えられる、「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでんいんようかんかつほきないでんきんうぎょくとしゅう)」という、たいへん長い名称の書物があります。これは簡単に言えば陰陽道の占い専門書なのですが、実際には晴明が亡くなったあとに成立したと考えられているものです。略称を「簠簋内伝(ほきないでん)」というこの書物を読みやすくし注釈を加えた「簠簋抄(ほきしょう)」が後年には出版されますが、そこに書かれた「簠簋内伝」の由来に安倍晴明誕生の伝承が記されています。

それによると、遣唐使の留学生として唐に行った「吉備真備(きびのまきび)」が、同じく唐に渡り死んで帰れなかった「安倍仲丸(阿部仲麻呂)」の霊(鬼)の助けを得て、「簠簋内伝」を手に入れて持ち帰り、晩年に常陸国(茨城県)の猫嶋という地にいた安倍仲丸の子孫の「安倍の童子」を尋ねて、「簠簋内伝」を譲ったというものです。安倍の童子は「簠簋内伝」を学び、筑波山で修行し鹿島神宮に参籠して能力を得て京に上りますが、その名前はなぜか安倍”清明”になっています。

この常陸国の猫嶋は茨城県の旧明野町猫島で現在の筑西市にあり、「晴明橋公園」として整備されて生誕の地の石碑が建てられています。

 

讃岐にもある安倍晴明生誕地伝説

讃岐国(香川県)にも安倍晴明生誕の地伝説があります。

明治34年(1901年)から刊行されている史料集『大日本史料』の「讃岐国大日記」には、晴明は讃岐国香東郡井原庄に生まれたとする記述があり、また丸亀藩の公選地誌『西讃府志』によれば讃岐国香川郡由佐に生まれたとされています。中世まであった香東郡は香川郡の一部で、現在の高松市香南町の辺りです。

この井原庄や由佐の地というのは、室町時代に由佐氏という武将が領していたところですが、由佐氏は百足(むかで)退治伝説で有名な藤原秀郷(俵藤太)の後裔と言われ、もともとは常陸国益戸(茨城県)の武将だったのです。それが室町時代に、常陸から讃岐の井原庄に移って本拠地としました。つまり由佐氏を通じて、常陸国から讃岐国に安倍晴明の出生の伝承が伝わったのでしょうか。

由佐の「冠纓神社(かんえいじんじゃ)」は、安倍晴明(の子孫?)が神主をしていたという伝承もある神社で、由佐氏が保護していました。由佐氏と安倍晴明や陰陽師との関係はもうひとつはっきりとはしませんが、何らかのつながりがあったのかも知れません。

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