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竜蛇信仰を巡る、長江流域「越」の国と古代日本の関係を考察する

風水
 
古代の中国に「越(えつ)」という国がありました。「呉越同舟」ということわざの由来となった越ですね。越は中国の春秋時代、紀元前600年頃から紀元前300年まで現在の東シナ海に面した浙江省の辺りにあった国で、ことわざにある隣国の「呉」と争いを繰り返し、やがて「楚(そ)」によって滅ぼされました。

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この越をつくった民族は、後に中国の漢族になる黄河流域の民族とは別の長江(揚子江)流域から南方、ベトナムにおよぶ広大な地域に住んでいた「百越(ひゃくえつ)」または「越族」と呼ばれる人々の一部でした。古代文明である「長江文明」の担い手は「苗(ミャオ)族」とこの越族で、黄河流域の民族の南下に押され苗族は山岳地帯へ、越族は長江下流やさらに南方へと追いやられたという説があります。越族は北方の「上古漢語」とは異なる「古越語」を話し、言葉は通じなかったそうです。

そして長江文明と言えば、稲作文化の発祥の地であると共に竜蛇信仰や龍宮伝説が生まれた文明でもあります。

 

越族と古代日本との遺伝子的関係

この越族が古代の日本に渡って来たという説があるのです。
実際に遺伝子の系統では、日本人の「Y染色体ハプログループ(共通の祖先を持つ遺伝子のグループ)」には「O2b1a-47z」という系統が多く見られ(約25~35%)、このO2bという系統と、それから姉妹関係にあるO2aという系統が越族と同じなのだそうです。O2aの系統は東南アジアやインドの一部で多く見られます。また中国や朝鮮半島の人々はO3系統が最も多いのですが、朝鮮半島では日本人のO2b1a-47zとは別のO2b-M176から分化した系統が二番目に多いのだそうです。つまり越族のうちO2bに属する系統の人々が、朝鮮半島の一部や日本列島に渡って来たのではないかと考えられています。

ちなみに日本人で最も多い系統は「D1b」という系統で(約30~40%)、本土の日本人と沖縄やアイヌ民族に多く見られ、日本以外で多く見られるのはチベットしかないという世界的には稀な系統なのだそうです。このD1bの系統の人々は、約3万年前に日本列島で誕生した縄文人の系統だと言われています。

 

越族が日本に来たのはいつなのか?

O2bの遺伝子系統を持つ越族が日本にやって来たのは、一般的に弥生時代と稲作の始まりの時代、現在では紀元前1000年頃からと考えられています。つまりこの人々が弥生人となったとする説です。

しかし越族は、もっと古くから日本列島に来ていたのではないかと考える説もあります。
縄文時代の前期(紀元前5000年頃から紀元前3000年頃)の福井県若狭町の「鳥浜貝塚遺跡」から「赤色漆塗り櫛」が出土し、高度な漆工芸の技術と頭に櫛を飾る文化が縄文時代にあったことが発見されました。実はこのクシの文化や漆の文化は長江文明と共通しているそうで、長江河口付近の「馬家浜遺跡」(紀元前5000年頃から紀元前4000年頃)からは象牙の櫛やヒスイの装飾品などが発見され、また同じ浙江省の「河姆渡遺跡」からは、赤色漆塗りの木製の椀が発掘されています。

日本最古の赤色漆塗り櫛が発掘された鳥浜貝塚遺跡のある福井県は、かつての「若狭の国」と「越(こし)の国」の「越前(えちぜん)」にまたがっています。鳥浜貝塚遺跡は若狭ですが、すぐ隣は越の国でした。この越の国は、古代は「高志国」と書き「越国」と表記したのは8世紀の奈良時代からだそうですが、「こしの国」に「越国」の字を当てたのは、古くから長江流域の越族とつながりがあったからかも知れません。

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