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邪馬台国論争を生んだ『魏志倭人伝』には信憑性があるのか

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邪馬台国がどこにあったのかという疑問は、いまだに解明されていない最大の謎であり、現在も続く「邪馬台国論争」はすべてこれにつきると言っても良いものです。
今回もこの謎についてご紹介したいと思いますが、その前に邪馬台国への道程を記した『魏志倭人伝』の記述は信用できるのかという、そもそもの疑問について見ていくことにしましょう。

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紀元3世紀に書かれた書物はどこまで信用できるのか

一般的に魏志倭人伝と呼ばれているものは、中国の三国時代が終わって西晋が中国を統一した280年以降に書かれた歴史書『三国志』のなかの、「魏書」にある「東夷伝倭人条」のことです。

この紀元3世紀ごろに書かれた中国の歴史書に記された邪馬台国の存在が、もし架空の話であったとしたらすべてが絵空事になってしまいますし、謎も論争も成立しません。魏志倭人伝の前にも紀元1世紀の頃に書かれた「漢書」には、100ヵ国以上にも分かれた倭人の国があると記されていますし、魏志倭人伝よりも成立は後ですが5世紀に書かれた『後漢書』には、使者を送って来た「倭奴国」に金印を授けたと記されています。この金印が、江戸時代に博多湾の志賀島で掘り出された「漢委奴国王」と刻まれた金印であるとされているのは、とても有名な話です。

漢の時代は、魏があった三国時代よりも前の紀元前206年から紀元220年で、魏は220年から265年ですから、魏志倭人伝よりも以前の中国においても、倭人の住む倭国があって中国の王朝とやりとりをしていたことが認識されていました。ですから、魏の時代に倭人や倭国について一定の知識があったのは信用できると考えられています。

 

魏志倭人伝は正しく書かれているのか

それでは、魏志倭人伝に記述された内容は正しく書かれたものなのでしょうか。これについては、実は大きく解釈の分かれるところです。

まず今日に伝わっている魏志倭人伝は書かれた当時の原本ではなく、12世紀の宋の時代に書き写され木版で出版されたものです。現存する2つの版本「紹興本」と「紹熙本」は、魏志を忠実に書き写したものだとされていますが、果たしてそこに写し間違いや誤植はなかったのでしょうか。そこにも現在に続く論争があります。

例えば、邪馬台国に至る国から国への方角や距離は正しく書かれたものなのか、国の名称は正しい字で書き写されたものなのか、などなど。そもそも原本がどのぐらい正しい知識によって書かれた内容なのかの証明も難しいうえに、12世紀に出版された内容の記述が本当に正しいものなのか。漢字でわずか2000文字足らずの内容が、様々な解釈や現在も決着のつかない大きな論争を巻き起こしたのは、こういった点が元になっているのです。

 

邪馬台国という名前の文字

国の名前で大きな議論となったものに、邪馬台国の名前を記した漢字の問題があります。
邪馬台国の「台」は「臺(たい)」という文字で書かれているのですが、これが実は16世紀から18世紀に発行された三国志では、すべて「壹(いち)」という文字が使われているというのです。ですから、邪馬台国ではなく「邪馬いち国」。
このことを研究し重要視した研究者もいますが、多くの研究者は当初は「壹(いち)」の文字が使われたとしても、例えば『後漢書』(5世紀)では「邪馬臺国」と修正され、その後の『隋書』(7世紀)の「倭国伝」には「邪靡堆(やびと/やみぃと)に都す、則ち『魏志』に云うところの邪馬臺なり」と記されているように、実は「臺」が正しいと解釈しています。ちなみにこの隋書倭国伝の「邪靡堆」という文字も、「邪摩堆(やまと)」の誤記だとする説もあるようです。

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