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陰陽道の成立~陰陽師・安倍晴明の世界ができるまで

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現代のわたしたちがイメージする陰陽師というと、呪術を操り鬼や魔と戦い調伏する、古代の魔術師のような存在といったところでしょうか。しかし、飛鳥時代に誕生した「陰陽寮(おんみょうりょう)」に所属する「天文」「陰陽」「暦」「漏刻(水時計)」の4博士と陰陽師たちは、天文を観測や占星術による占い、暦の編纂、時刻の管理などで天皇と朝廷の「政(まつりごと=祭ごと)」を補佐する役目でした。

その知識や仕事の内容は門外不出の秘密機関でしたが、鬼や魔と戦うような行動する組織や人たちではなく、大陸渡来の「陰陽五行思想(いんようごぎょうしそう)」をベースに観測や研究を行いアドバイスする、研究機関のようなものだったのかも知れません。博士や陰陽師も、中国大陸や朝鮮半島から渡来した学問僧が任命されることが多かったようです。

しかし平安時代になると、陰陽寮の実態や陰陽師の役割が徐々に変化していきます。そしてその変化の中で登場したのが、不世出の陰陽師「安倍晴明(あべのせいめい)」です。

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怨霊や鬼たちに脅かされる平安時代

はるか古代より日本人が、自然の猛威や戦争などの争いにも増して怖れていたものは、怨霊や物の怪、鬼などの超自然的なものによる災いでした。特に怨霊は、天災や疫病などの多くの人々に対する災いをもたらすものとして、たいへん怖れられました。

怨霊とは、そもそも怨みを抱いて非業の死を遂げた人間がなるもので、日本の国が成立していく歴史のなかでも多くの人が争いに敗れ、時には暗殺などで怨みをもって死んでいます。平安時代が始まる平安京への遷都からしても、それ以前の奈良・平城京から長岡京への遷都・造営を主導していた桓武天皇の側近である藤原種継の暗殺、桓武天皇の皇太弟である早良親王(さわらしんのう)の反逆罪を理由とした廃嫡と幽閉・配流、死亡といった事件が続くなか、早良親王の怨霊による災いを怖れて、わずか10年で長岡京が廃止されてしまったからなのです。

このように京都・平安京の平安時代とは、怨霊から脅かされる時代として始まったのでした。

 

怨霊と御霊信仰が陰陽師を変えた

長岡京での藤原種継の暗殺事件には、遷都に反対した平城京の仏教勢力が関わっていたとされ、早良親王もそれに与していたとして反逆罪に問われたのでした。その真実は闇の中なのですが、早良親王が亡くなると飢饉や疫病が流行し、桓武天皇の皇后や近親者の死去、皇太子の発病、伊勢神宮正殿への放火といった災いが次々に起こります。

災いの原因を陰陽師に占わせると、これは早良親王の怨霊が起こしたものだという結果が出ました。そこで怨霊を鎮める儀式を行ったのですが、大雨による川の氾濫などが続いて災いは収まりません。造営したばかりの長岡京は怨霊に祟られる都となり、ついには新しい都を捨てて平安京への遷都が決まったのでした。

早良親王の怨霊は鎮まらなかったのですが、このような大きな災いをもたらす怨霊を鎮め祀るという考え方は、平安時代の始まりとともに広まります。それは、怨霊は神として祀られることによって「御霊(ごりょう)」となり、かえって平穏をもたらす鎮護の神となるという考え方で、平安時代にはその儀式として「御霊会(ごりょうえ)」という宮中行事が行われるようになりました。これを「御霊信仰」というのですが、この御霊信仰に平安時代の陰陽師は大きく関わって行き、また陰陽師の役割も変わっていきます。

 

日本独自の陰陽道が始まる

怨霊への怖れと御霊信仰が広まると、怨霊や悪霊、あるいは物の怪や鬼といった、人間に災いをもたらす超自然的なものたちを鎮め退散させ、災いを防ぐ強いチカラを、特に貴族たちを中心に求めるようになります。これによって、従来は暦や時間を司り占いを行っていた陰陽師には古い神道、宿曜道といった占星術や北極星や北斗七星を敬う星辰信仰などの道教の要素、霊符を用いた呪術などの術技が加わり、それらが総合されて日本独自のものである「陰陽道」が成立したのでした。

まさに怨霊を怖れる平安時代とともに、安倍晴明が登場する陰陽師の世界がつくられていくのです。

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