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河童が遺したもの(3)江戸の合羽橋と河童の手

カッパ

 

東京台東区に、「合羽橋(かっぱばし)」と呼ばれる道具街があるのをご存知でしょうか。調理器具や厨房用品などの日本最大の専門店街として知られ、現在では日本の食品サンプルが海外に知られようになったことから、外国人観光客も訪れる街になっています。
この合羽橋の「合羽」は河童ではなく、雨合羽のカッパつまりレインコートのことです。それではなぜ合羽橋という名前が付けられたのか、またこの街のキャラクターはまさに河童なのですが、合羽と河童にどういう関係があるのでしょうか。

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河童が助けた掘割の整備

江戸時代の文化11年(1814年)と言いますからそれほど大昔ではない19世紀の初め、この場所で掘割の整備が行われることになりました。現在ではそれほど大きなイメージはありませんが、江戸の町というのは人工の掘割が縦横に走り、そこを船が行き交う水上交通の都市だったのです。当時、海に近いこの地は低湿地で、既に排水の役割を担う新堀川という人工の河川はあったものの、大雨ではすぐにあふれ疫病が流行ることもありました。

 
そこで新堀川の支流をつくることを目的に、その掘割の開削整備を行ったのが地元商人の「合羽屋喜八」という人で、彼は私財を投げ打って工事を始めることになりました。当時この場所には古道具屋のほか雨合羽を作る店が数多くあり、合羽屋喜八はその中でも最も裕福な商人だったようで、なんとか地元に還元したいという思いがあったそうです。

 
さて工事は始まったのですが、なかなかはかどらず合羽屋喜八は困ってしまいました。すると、隅田川に棲む河童が夜な夜な出て来て工事を手伝ってくれ、掘割工事は遂に完成したそうです。

 

 

合羽屋喜八が助けた河童の恩返し

実は、現在の合羽橋道具街がある台東区松が谷の「曹源寺」というお寺の前には池があり、そこに河童が棲んでいました。ある日、その池の河童が近所の子供たちに捕まっていじめられていたところを、合羽屋喜八が助けたということがあったのだそうです。合羽屋喜八は合羽川太郎というあだ名で呼ばれていて、川太郎は河童のことですから河童と縁の深い人だったわけです。

 
この曹源寺前の池の河童がその後、隅田川に棲むようになり、隅田川の河童たちを引き連れて合羽屋喜八への恩返しに工事を手伝ってくれたのでした。
掘割が完成すると、それに安心したのか合羽屋喜八はすぐに亡くなってしまい、工事に私財をすべて投じたために財産もなくなり、地元の人たちがお金を集めて葬式を出したのだそうです。この掘割にかかる橋は合羽橋と呼ばれるようになり、それが現在の合羽橋道具街の名称になりました。

 

 

河童の手が遺る曹源寺

さて、河童が棲んでいたという池が目の前にあった曹源寺ですが、合羽屋喜八が檀家でありここに葬られているばかりでなく、境内には「河童大明神」も祀られ東京の「かっぱ寺」として知られています。

 
河童が助けた掘割工事が完成した後、この河童を見た人は不思議と商売が繁盛したと伝えられ、河童大明神は商売繁盛と火難水難除けに霊験のある明神として信仰されたそうです。河童堂には河童の手のミイラが遺されていて、その箱書きには「水虎之手」と書かれています。「水虎」とは、もともとは中国の水辺や水中に棲む妖怪ですが、江戸時代にはこの水虎=河童と考えられていました。

 
ちなみに、この曹源寺のものをはじめ全国にはいくつか、江戸時代のものと思われる河童の手のミイラが伝わっていますが、江戸時代には動物の身体のパーツを組み合せて不思議な生物のミイラを作る造形師がいたそうで、多くの河童の手もそういう造形師によって製作されたと考えられています。曹源寺の河童の手が、そういったもののひとつなのかはわかりませんが、合羽橋が河童に縁の深い場所であることに変わりはありません。

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