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天叢雲剣から草薙剣へ(1)古代の最強の英雄ヤマトタケルの剣

刀剣伝説

 

神話の世界から歴史の時代へと移り変わる頃の日本で、最も有名な伝説的英雄といえば日本武尊(やまとたけるのみこと)ではないでしょうか。
八岐大蛇(やまたのおろち)の体内から取り出され、やがて「三種の神器」のひとつ、神の剣となった「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」は、この日本武尊がチカラを揮う英雄の剣となります。

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熊襲を征伐した日本武尊

日本武尊は第12代景行天皇の皇子で、その活躍した正確な年代は不明ですが、景行天皇の時代を西暦にあてはめると紀元90年代の頃になります。

 
古事記や日本書紀によると、日本武尊(初めは小碓命という名前)は兄の大碓命と双子の兄弟でした。大碓命は、父の天皇に命じられて見に行った娘と通じてしまったことなどから天皇に恨まれてしまいます。古事記では、あるとき小碓命は天皇の命令を間違って解釈してしまい、兄を素手で殺してしまうのです。

 
小碓命は天皇から恐れられ、その頃に叛乱を起こした九州の熊襲(くまそ)征伐を命じられます。小碓命はこのとき、わずか16歳であったと記されています。

 
叛乱を起こした熊襲の長は、2人の兄弟の熊襲建(くまそたける)でした。熊襲建の「建(たける/梟師とも書く)」とは熊襲にいくつかあった部族集団の長の尊称で、この兄の建と弟の建が倒すべき相手です。小碓命はその宴に美少女に変装して潜り込み、その宴のなかで兄の建を斬り、弟の建も仕留めます。

 
弟建は死の間際に、小碓命の武勇を賞賛して自らのタケルの名を献上し、小碓命は倭建(やまとたける/日本武尊)の名となりました。

 

 

神の剣は日本武尊の手に

熊襲征伐を果たした日本武尊が大和に戻ると、父の景行天皇は次に東国の暴れる神や蝦夷を鎮めるために、日本武尊を征夷の将軍として再び討伐に派遣します。

 
さてこの頃、三種の神器のひとつである天叢雲剣はそれまで天皇の宮にあったのですが、第10代崇神天皇のときに、皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)によって八咫鏡(やたのかがみ)とともに皇居の外で祀られていました。

 
それまで宮中では天照大神と倭大国魂神(やまとおおくにたまのかみ)の二柱の神を祀っていたのですが、崇神天皇は二神の神威の強さを畏れて宮の外で祀るようにし、天照大神から下された天叢雲剣も外に出されたのだそうです。このとき天皇が三種の神器として身近に置くために、天叢雲剣の「形代の剣(かたしろのけん)」、つまりもうひとつの天叢雲剣が造られたということです。

 
景行天皇のときには、天叢雲剣は日本武尊の叔母である倭姫命(やまとひめのみこと)によって、倭姫命が創建し天照大神を祭神とする伊勢神宮で祀られていました。東国の征伐に向かう日本武尊が伊勢神宮を参拝し倭姫命のもとを訪れると、倭姫命は「もしものときには袋を開けて、この剣を使いなさい」と、天叢雲剣と小袋を手渡したのでした。

 
こうして神の剣である天叢雲剣は日本武尊の手に渡ったわけですが、倭姫命は神剣のチカラを必要とするような苦難を、日本武尊の東国の征伐に感じたのでしょう。はじめに皇居の外で天叢雲剣を祀った豊鍬入姫命も、そしてこの倭姫命も神に仕える巫女であり、神の意志を感じ伝える存在だったと言えます。つまり神の剣が日本武尊に渡されたのは、天照大神の意志によるものだったということになるのでしょう。

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