モデルは誰?かぐや姫に求婚した5人の貴公子たち
『竹取物語』の物語の構成は、古代からの伝承を元にした話と歴史的な時代の人物を題材にした話が組み合わされていると言われています。
天から降りて来た天女の話でよく知られるのは、『丹後国風土記』をはじめ各地に伝承され語られる「羽衣伝説」です。丹後の羽衣伝説では、天から降りて来て帰れなくなった天女は老夫婦の子となりますが、やがて追い出されてしまいます。また一般的な羽衣伝説では、人間の男に天の羽衣を隠され帰れなくなった天女は、その男と結ばれますが、のちに羽衣を見つけ天へと帰ります。
一般的には天女はある時期、人間の男性と結ばれるわけですが、それでは竹取物語のかぐや姫はどうだったのでしょうか。
かぐや姫の前には5人の貴公子が現れます。この、かぐや姫と5人の貴公子との物語が、その当時から見て歴史的な時代の人物を題材とした話だというわけなのです。
モデルがあった5人の貴公子たち
5人の貴公子のモデルは既に江戸時代には研究されていて、「石作皇子」という登場人物は「多治比真人嶋(たじひのまひとしま)」、「車持皇子」は「藤原不比等」がモデルとされています。また「阿部御主人(あべのみうし)」「大伴御行(おおとものみゆき)」「石上麻呂(いそのかみのまろ)」の3人の登場人物は実在の人です。
藤原不比等と石上麻呂以外は壬申の乱(672年)に功績のあった人物で、天武天皇から持統天皇、文武天皇に仕えた人たちです。ちなみに藤原不比等は壬申の乱のときにはまだ数え13歳で、父親の藤原鎌足が大きな功績をあげています。つまり竹取物語の舞台は奈良時代の前の飛鳥時代後半とされ、書かれたときから250年ほど前のお話ということになります。
5人の貴公子は日本の大立て者たち!?
それでは5人の貴公子とは、どんな人たちなのでしょうか。
石作皇子=多治比真人嶋は、皇子とあるように飛鳥時代の宣化天皇の四代目の孫で、当時の身分制度である八色の姓(かばね)の最高位の真人の姓を与えられています。持統天皇の時代には第二位の身分の右大臣となりました。
車持皇子=藤原不比等は、のちに摂関政治で朝廷の政治を長く牛耳ることになる藤原氏の地位を確立した人物です。この藤原不比等がなぜ車持皇子という皇族の登場人物のモデルとされているかというと、不比等は天武天皇の二代前の天智天皇の落胤という説があって、母の車持与志古娘は妊娠中に天智天皇から父の藤原鎌足に下げ渡された女性だということです。ですから母の車持から名前をとって車持皇子になっているわけです。
阿部御主人は左大臣だった阿部内麻呂の子で、壬申の乱で功績があって高い地位につき、晩年には右大臣となりました。
大伴御行は右大臣だった大伴長徳の子で、やはり壬申の乱で天武天皇側に立ち、のちに大納言の地位についています。
石上麻呂は物部氏の一族で、壬申の乱では他の4人とは違って大友皇子(弘文天皇)側についたのですが、乱のあとには赦されて晩年は大納言から右大臣、左大臣となりました。
このように5人とも朝廷の中枢にいた地位の高い人物なのですが、竹取物語が書かれた当時の人は、そんなモデルのことがすぐに思い当たっていたのかも知れません。またこの5人は、それぞれに立場的な違いを象徴させていると言われています。
5人の貴公子が象徴するもの
まずは石作皇子=多治比真人嶋ですが、まさに皇族出身で天皇の臣下となった権力者です。
また車持皇子=藤原不比等は後代の摂関家のもととなる権力者であり、竹取物語が書かれた平安時代初期には政争などから藤原氏は盛衰があるものの、天皇の外戚となって不動の地位を獲得していきます。ですからそれぞれが、皇族と貴族の「権力」の象徴になります。
それに対して阿部御主人は裕福な「富み」の象徴、大伴御行は武人であり「武力」の象徴、石上麻呂は朝廷に仕える官人で現代で言えば「高級官僚」の象徴と言われています。そしてそれぞれの象徴性は、かぐや姫と5人の貴公子の物語で描かれていくのです。