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鬼と忍者に関係はあるのか?「藤原千方と四鬼」の伝説とは?

鬼伝説

 

日本の歴史に遺された伝説のなかで、中央の朝廷に反抗した者たちの物語には鬼が登場してきます。役小角の伝説や大江山の鬼退治、桃太郎伝説の元となったされる吉備津彦命と温羅(ウラ)の伝説などなど。
それら反抗する鬼の伝説のなかでも、ユニークな能力を持った鬼たちが登場するのが「藤原千方(ふじわらちかた)と四鬼」の伝説です。

 
この物語にも諸説がありますが、一般的に知られているのは南北朝から室町時代に成立したとされる、「太平記」という軍記物語のなかで語られるもの。巻十六「日本朝敵の事」という古代からの朝敵(朝廷に反抗する者たち)を記した記事のなかに、天智天皇の時代(7世紀)に伊賀・伊勢の国で反乱を起こした藤原千方と四鬼の話が出ています。

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壬申の乱と藤原千方の反乱の時代

太平記は天智天皇の時代からはるかあとの時代、およそ700年後に書かれた軍記物語ですから、藤原千方が実在の人物であったかどうか、またそのモデルとなる人物がいたのかどうかは良くわかりません。
しかし天智天皇の時代といえば、天皇自身が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として中心人物となり大化の改新というクーデター起こし即位したという、日本の古代史における大変革の時代。
大化の改新後は、朝鮮半島での百済救援のための「白村江の戦い」の大敗、天智天皇崩御後には古代最大の内乱と呼ばれる「壬申の乱(じんしんのらん)」が起こります。

 
息子の大友皇子(おおとものみこ)に、天智天皇の弟である大海皇子(おおあまのみこ)が反乱を起こし、反乱は成功して大海皇子は天武天皇となります。
藤原千方の反乱があったと語られるのは、このような激動の時代というわけです。

 

 

太平記に語られる藤原千方と四鬼

それでは太平記に記された藤原千方の反乱の伝説とは、どのような話なのでしょうか。お話自体はとても短いものです。

天智天皇の時代に藤原千方という者がいて、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「隠形鬼」という4人の鬼を使役していました。金鬼は身体を硬くすることができて、矢を射ても刺さりません。風鬼は大風を吹かせて、敵の城を吹き破ります。水鬼は洪水を起こして、陸の上の敵を溺れさせます。隠形鬼は姿を隠して、敵を打ち破ります。このように不思議な力で戦うので、藤原千方の勢力にある伊賀と伊勢の国は朝廷に従う者がいませんでした。

 
紀朝雄という者が朝廷の命を受けて伊賀・伊勢に下り、一首の歌を鬼たちに送りました。
「草も木もわが大君の国なれば いづくか鬼の棲なるべき」
四鬼はこの歌を見て天皇に歯向かうと天罰が下ると改心し、四方に去ってしまいます。藤原千方の軍勢は四鬼がいなくなってしまったので戦力が弱まり、紀朝雄に討たれてしまいました。

鬼が改心するのは、反抗する鬼の物語の典型的な結末ですが、それよりも4人の鬼たちが単に力が強いとか凶暴だと言うことではなく、それぞれに独自の不思議な戦いの能力=技を持っているというところがとてもユニークであり、伊賀という後世に忍者の国とされる土地柄と併せて鬼と忍者との関係を暗示するような物語となっています。

 

 

忍者の国

忍者の国としての伊賀が有名になるのは戦国時代のことですが、実際には平安時代末期の源平の時代から忍者は活躍していたと考えられています。しかし忍者の歴史はそれよりも古く、源流は聖徳太子の時代にまで遡るとも言われています。
忍者=忍びの語源は、飛鳥時代に聖徳太子が大伴細人(おおとものほそひと)という者を「志能備(しのび)」として間諜などの役割に用いたという伝説があります。
伊賀においては、奈良時代以降に東大寺や興福寺などの多くの荘園がありましたが、その荘園のなかで起こった「悪党」という武装した有力地主が、修験道などとの関わりのなかで行者や山伏の修行から生まれた技や戦法を身につけ、忍者となっていったと考えられています。

 

 

悪党の楠木正成と伊賀忍者

日本の歴史に登場する「悪党」といえば、南北朝時代に建武の新政の立役者として、後に室町幕府を開く足利尊氏とともに活躍した楠木正成という武将がいます。
この楠木正成の本拠地は伊賀の隣の河内ですが、「千早城の戦い」での奇想天外なゲリラ戦法に代表されるように伊賀の忍者との関係が歴史の裏側で語られる人物です。実際に楠木正成の妹は伊賀の大忍である服部氏と結婚しており、その子が能楽を起こした観阿弥であるという説もあります。

 
服部氏は大陸からやってきた渡来人の末裔という説もあり、服部(ふくべ、はたおりべ、からはっとり)という名のとおり機織りなどの職能集団でした。その一族が伊賀に土着し忍者としての戦う職能集団へとなっていったと考えられています。
後醍醐天皇の南朝側として戦った楠木正成と、おそらくは一緒に戦ったであろう伊賀忍者。この両者の関係が、楠木正成も主要人物として登場する「太平記」に記された藤原千方と四鬼の反乱の伝説と重なってくるのは偶然のことでしょうか。

 

 

藤原千方の四鬼と伊賀忍者

藤原千方と四鬼の伝説は、太平記では7世紀の天智天皇の時代とされていますが、おそらくはその後の「壬申の乱(じんしんのらん)」の時代が舞台となっているのではないかと想像されます。なぜなら、皇室がふたつに分かれて争ったという点で太平記の物語の舞台である南北朝の時代と壬申の乱の時代が重なるからです。
藤原千方を楠木正成に、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「隠形鬼」という4人の鬼は服部一族などの伊賀忍者に重ね合わせることができるのではないでしょうか。

 
また藤原千方は伝説上の人物ですが、壬申の乱の中心人物である大海皇子(おおあまのおうじ)、のちの天武天皇その人であるという見方も、もしかしたらできるかも知れません。大海皇子は天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)に対して挙兵し、わずか20人ほどの従者とともにそれまで隠棲していた吉野を出て伊賀・伊勢へと向かいます。伊賀で地元の豪族に対し挙兵を促しますが、やがて各郡司など伊賀の豪族たちが数百の兵を率いて加わり、伊勢神宮へと兵を進めて壬申の乱が始まるのです。
ちなみに伊賀の国は古代より4郡(阿拝郡、山田郡、伊賀郡、名張郡)に分かれており、金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼の四鬼を伊賀の4郡それぞれの忍者勢力と見なすこともできるかも知れません。

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