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天叢雲剣から草薙剣へ(3)ヤマトタケルの悲劇

刀剣伝説

 

「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を持ち東国の征討に向かった日本武尊(やまとたけるのみこと)は、関東から東北、中部地方を巡る長い旅の末に、ようやく東国を平定して尾張国(愛知県)へと戻り、この地を治めている尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の娘である宮簀媛(みやずひめ)を娶って、長く滞在することになります。
しかし、平穏を手に入れたかに思えた日本武尊と天叢雲剣=草薙剣の物語は、これで終わりではありませんでした。

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草薙剣を妻に預け、戦いに向かった日本武尊

尾張国に滞在する日本武尊は、近江国(滋賀県)の伊吹山に荒ぶる神がいることを聞かされます。
そこで彼は草薙剣を妻の宮簀媛に預け、素手で伊吹山の神に立ち向かうために出かけるのです。どうして日本武尊は、これまでずっと共にあり身を護る神の剣であった草薙剣を持たずに、伊吹山の神を倒しに出かけたのでしょうか。それについては、古事記・日本書紀には理由が記されていません。しかし「尾張国風土記逸文」にはこんな話が語られています。

ある夜、日本武尊が手洗いに行く際、いつも身につけている草薙剣が邪魔になるので傍らの桑の木に掛けて置いたところ、取りに戻ってみると剣は燦々と光り輝いていたのだそうです。これには日本武尊も宮簀媛もとても驚き、神霊が宿った剣としてその後は身につけることなく、祀るようになったということです。

もともとは伊勢神宮に祀られていた神の剣ですから、あらためて祀られるということにはもうひとつ頷けませんが、東国征討を終え宮簀媛を娶って尾張国に腰を落ち着けた日本武尊にとって、東征の護剣として渡された草薙剣を、もう身につけている必要はないと思っていたのかも知れません。

 

 

日本武尊の東征

さて、素手で伊吹山に向かった日本武尊の前に、荒ぶる山の神は白い大猪(日本書紀では大蛇)の姿になって現れます。
日本武尊はこれを山の神の化身とは思わず、神の使いだから問題ないだろうと無視して進もうとしますが、山の神は雲を起こして雹(ひょう)を降らせ、霧を出して視界を塞ぎました。日本武尊は行くべき道を失い、山の中をさまよって意識を朦朧とさせながらようやく下山します。しかし彼は、病気になってしまっていました。

 
宮簀媛のもとへは帰らず、弱った身体で日本武尊は大和国へと向かいます。伊勢国(三重県)の能褒野(のぼの)という地に辿り着いたところで病は重くなり、あえなく日本武尊は亡くなってしまったのです。

 
「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭し麗し」という歌は、このとき故郷の大和を偲んで歌ったものとされています。ときに日本武尊は30歳、16歳で熊襲征伐に出かけ、大半を征討の旅に費やした短い生涯でした。能褒野に葬られたとき、日本武尊は白鳥となって大和に飛んで行ったとされています。

 
それでは、宮簀媛のもとに残した草薙剣はどうなったのでしょうか。この神の剣を祀るため、宮簀媛は「熱田神宮」を創建しそこに奉納されました。熱田神宮には、現在でも草薙剣がご神体として祀られているということです。

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