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河童はなぜ相撲が好きなのか?〜水神様と相撲〜

カッパ

 

河童が好きなもののひとつに、相撲があります。人間に河童が相撲を挑んできて、人間が負けると「尻子玉」を取られてしまうというのがよくある話。
それではなぜ河童は、相撲が好きなのでしょうか。それを考える前に、江戸時代に河童と相撲を取って投げ殺したと言われる、有名な相撲取りをご紹介しましょう。

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河童に相撲で勝った白藤源太

江戸時代の中頃に活躍した相撲取りに、「白藤源太」という伝説の力士がいました。上総の国(千葉県)夷隅郡神置村の出身とされる実在の力士ですが、「勝相撲浮名花触(かちずもううきなのはなぶれ)」という歌舞伎や謡曲などに登場し、最強の力士として描かれています。

 
戯作者の山東京伝は、この力士を題材に「白藤源太談」という仇討ち物語を著しましたが、そのなかで白藤源太が河童を投げ殺したというエピソードが出てきます。浮世絵師の三代歌川豊国は「大日本六十余州之内 上総」で、河童の頭を掴んで持ち上げている白藤源太を描きました。またその後、幕末の浮世絵師・月岡芳年が、「和漢百物語」という日本や中国の伝説をテーマに描いた浮世絵版画で、白藤源太と河童の相撲をモチーフにした浮世絵を登場させます。

 
和漢百物語の浮世絵には、「白藤源太は数多くの力士と相撲を取り誰にも負けなかった。ある夏に柳の下にいると、河童が現れ力競べをしようとしたが、白藤源太は一喝してすぐに投げ殺した」と記されています。ただ、描かれた絵は相撲を取る河童たちを縁台に座って応援するように見る白藤源太で、投げ殺した様子は描かれてはいません。
いずれにしろこれらを見ると、河童に勝った有名な力士として江戸時代には白藤源太はよく知られていたようです。

 

 

水神に奉納する相撲

そもそも河童は馬でも人間でも水の中に引込むのが得意で、水中でこそその力を発揮するはずです。それなのになぜ、陸上で相撲を取るのが好きなのでしょうか。
別の記事でも少し触れたのですが、そもそも相撲というのは水神様に奉納する行事という側面があったようです。日本の相撲は、垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日に野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)が戦ったものが初めてであると、日本書紀には記されています。

 
奈良・平安時代には宮中行事として行われた神事で、日本各地の神社でも奉納相撲が行われました。それらは、東西の代表など各地の力士が神前で力を競い、勝った力士の側の土地に豊作が訪れるという豊穣を祈願するものであり、また干ばつや疫病が流行ると水神様に祈願をし、願いの成就を感謝して奉納するものでもありました。

 
農作物の豊穣にしても干ばつや疫病を防ぐにしても、豊かで清浄な水とは大きな関係があり、そこから水神の眷属(けんぞく=その神の配下または関係するモノ・動物)と考えられた河童とのつながりが生まれたのだと思われます。

 

 

河童相撲が行われる神社

福岡県の久留米市を流れる巨瀬川のほとりにある「高橋神社」の祭神は菅原道真と水分神で、むかし河童と水神様が相撲を取った場所であると言われています。菅原道真は河童を助けたとされていますし、巨瀬川に棲む河童の総大将である「巨瀬入道」は平清盛の化身で、河童たちは戦死した平家の一族であるといった伝承があるなど、河童ととても縁の深い神社なのです。

 
この神社で毎年5月に行われる川祭りは、河童の供養と子供たちに事故がないように祈願する祭りで、相撲が好きな河童が水神様に挑んでこっぴどく負けたという伝承にちなんで「河童相撲」が行われています。かつては九州全土から力自慢が集まって競った奉納相撲でしたが、現在では背中に河童の甲羅の絵を描いた子供たちが相撲を取る行事になっています。

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