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邪馬台国論争~邪馬台国の「九州説」を考える

山
 
邪馬台国はどこにあったのか? 朝鮮半島からの道程が記された魏志倭人伝の記述通りに辿って行くと、それは日本を突き抜けて太平洋のどこかに存在した国になってしまいます。
それではどう解釈すれば、邪馬台国のあった場所を突き止めることができるのか。長年の研究や議論から出てきたのが、「九州説」と「畿内説」の2つの説を軸とした「邪馬台国論争」です。
それでは、そのうちの九州説について簡単にご紹介することにしましょう。

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当時の倭国の中心地は北九州だった!?

2世紀から3世紀頃の日本は、まだ日本全体を統一した政権はなく、出雲や吉備、畿内、東海など地域ごとに独立した分権国家だったと考えられています。そのなかで北九州にあって栄えたのが邪馬台国を中心とする倭国であるとするのが、邪馬台国九州説です。

中国の後漢の桓帝・霊帝時代(紀元147年から188年)に極東アジアは小氷期となって冷え込んで飢饉となり、中国では黄巾の乱などの戦乱が続いて流民が朝鮮半島に流れ込み、それらの影響から古くから朝鮮半島や中国と関わりの深かった北九州地域では、「倭国の大乱」が起こったとされます。倭国の大乱は、漢と結びつき金印を貰っていた「奴国」の勢力と邪馬台国を中心とした勢力の争いであり、中国で漢が弱体化し三国時代となって魏から支持された邪馬台国が最終的に勝ったというのが、魏志倭人伝の背景とされています。

 

邪馬台国への道程は?

邪馬台国への道程を、九州説ではこのように解釈されています。
まず、朝鮮半島の帯方郡と考えられる場所から女王国までは12,000余里とありますが、福岡県糸島市三雲を中心とした糸島平野が有力と考えられている「伊都国(いとこく)」までは10,500里で、これを引くと1,500里となり、これが伊都国から邪馬台国までの距離です。

「対海国(つまこく)」(対馬)と「一大国(一支国?/いきこく)」(壱岐)の間は1,000里余りとされていますから、その距離との比較から考えると邪馬台国は北九州のどこかだとするのです。実際の対馬と壱岐の間の距離は、対馬南部の対馬市厳原町から壱岐までは68kmぐらいだそうですから、糸島市三雲からその1.5倍の距離を考えると福岡県や佐賀県、大分県など北部九州のどこかになります。

それでは、この1,500里とはどのぐらいの距離なのか? それについては「短里」だという考え方があります。古代中国の1里は400mほどですが、これは「長里」というもので、魏やそのあとの西晋では1里を75~90mほどとする短里が使われていたとする説です。確かに対馬南部と壱岐との間の距離を70kmとすると、魏志倭人伝の1,000里で考えると1里は70mになり、なんとなく納得がいきます。しかし魏志倭人伝が含まれる三国志には長里でないと解釈できない記述もあり、魏志倭人伝の短里説を否定する説も多くあるようです。

 

九州説のなかにも様々な説がある

そのほか、九州に上陸したあとの「末盧国(まつらこく)」または「伊都国(いとこく)」からは、そこを起点としてそれぞれの国までの距離を記したという「放射説」もあります。
このような九州説からは、これまでに様々な場所が邪馬台国として考えられてきました。

江戸時代の新井白石は筑紫の国(福岡県)の山門郡(やまとぐん/柳川市)の説を唱えましたが、そのほかには福岡県の太宰府市(太宰府天満宮)、前原市の平原遺跡、大分県の宇佐市(宇佐八幡宮)、佐賀県神崎郡の吉野ヶ里遺跡、また北部九州以外では熊本県菊池市の山門、宮崎県西都市の西都原古墳群など、数多くの候補地があります。

また、古事記・日本書紀の神武天皇の東征を基に、日本に伝わる伝承や資料から九州で成立した邪馬台国の王朝が東へと行き、畿内で統一国家の基盤をつくったとする「邪馬台国東遷説」もあり、九州説と言ってもひとつにまとまってはいないのです。

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