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卑弥呼は誰?古事記・日本書紀には書かれなかった邪馬台国

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邪馬台国がどこにあったのかという謎に対して「九州説」と「畿内説」があり、それが「邪馬台国論争」として現在でも決着を見ない理由のひとつに、日本の文献には邪馬台国が登場しないということがあります。
倭国の中心となり、中国の魏王朝と交流し「親魏倭王(しんぎわおう)」と呼ばれた女王卑弥呼と邪馬台国が、なぜ日本の文献にきちんと記述されていないのかは、邪馬台国をめぐる大きな謎のひとつなのです。

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日本書紀に記された倭の女王

それではまったく書かれていないのかというと、邪馬台国や卑弥呼の名称の記述はないのですがそれを伺わせるような記述があり、そこがまた謎を深めさせているのです。

日本書紀の「神功皇后紀」39年条と40年条、43年条には魏志倭人伝から引用された箇所があり、66年条には中国の晋の起居注(皇帝の日常生活の記録)から引用されたものがあります。それぞれは注釈なのですが、このような記述です。

 

39年条「魏志によると、明帝の景初3年(239年)6月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡(朝鮮半島の帯方郡)に行き、天子に会いたいと朝献(朝廷に詣でる)した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都(洛陽)に詣でた」

40年条「魏志によると、正始元年(240年)に建忠校尉(文官)の梯携たちを派遣して詔書印綬を奉じ、倭国にもたらした」

43年条「魏志によると、正始4年(243年)に倭王はまた使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した」

66年条「晋の武帝の泰初(泰始)2年(266年)。晋の起居注によると、武帝泰初2年10月に倭の女王は通訳を重ねて貢献(貢物を献上する)した」

 
これはまさに、魏志倭人伝に記された邪馬台国・卑弥呼と魏との外交の記述を要約した引用であり、66年条の女王は卑弥呼の後を継いだとされる壹與(台与)のことです。
それではなぜ、日本書紀の神功皇后紀にはこのような注が記されたのでしょうか。

 

卑弥呼と神功皇后は同一人物??

この魏志倭人伝が引用されている神功皇后紀は、日本書紀のなかで「三韓征伐」で知られる神功皇后の事績を記録したパートです。三韓征伐とは、神功皇后が朝鮮半島の「新羅」に出兵し、新羅に加え「百済」「高句麗」をあわせた三ヵ国(または馬韓・弁韓・辰韓の朝鮮半島南部とも言われる)を勢力下に置いたとされる古代の戦争のこと。

神功皇后は第14代の仲哀天皇の皇后ですが、夫の天皇が急死したあと政事を執り行ったとされ、特に朝鮮半島への出兵や国内での内乱の平定など、多くの戦乱に勝利したとされています。このことから、日本の古代史のなかで最強と言える女王とも想像されますが、ただし神功皇后が実在の人物なのか、また三韓征伐が事実なのかははっきりとはしていません。

この神功皇后の事績の記録の中に倭国と女王の記述が引用されているということは、日本書紀は倭国の女王卑弥呼と神功皇后が同じ女性だったということを示唆している、という説が古くからありました。しかし、そうだとはっきりは書かれていないことから謎は謎として残ったままで、そもそも同時代の人物ではないなど多くの否定的な意見も存在しています。

 

神功皇后紀に倭の女王が引用された理由

それではなぜこのような要約の引用のかたちで、神功皇后紀に魏志倭人伝の倭国と女王のことが記されたのでしょうか。これについても多くの説があるようですが、卑弥呼と神功皇后が同一人物であることを否定する説では、神話の時代から日本の統一王朝として続く大和朝廷の正統性を示そうとしたものではないか、と考えられているようです。

日本書紀は720年に完成したとされていて、卑弥呼の時代から480年も後のことです。つまり今の時代から考えれば、16世紀の戦国時代初期のことを書いているようなものです。ましてや古代を扱った日本で初めての正史ですから、事実だけの記録ではなく色々とつじつま合わせがされているかも知れません。
そのなかで中国の歴史書に既に書かれ、おそらく多くの人に知られていた邪馬台国や卑弥呼のことをどう扱うのかには、工夫が必要だったのだと思われます。そこで神功皇后の事績や伝承のなかにさりげなく魏志倭人伝の記述を引用し、曖昧なかたちで同じ人物ではないかと示唆したのではないか、という説があります。

果たして真相はどうなのか。卑弥呼と神功皇后の2人は、現在でも日本の古代で最大の謎の女性なのです。

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