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河童はジャパニーズUMA!江戸時代に華開いた河童伝説

カッパ

日本の三大妖怪のひとつとも言われる「河童(かっぱ)」に人々の関心が高まったのは、江戸時代中頃のことだったそうです。
江戸時代と言えば、妖怪が大流行した時代でもあります。日常的に生死を賭けるような戦国の世の中が終わり、長い平和が訪れた徳川幕府の世の中。鎖国の影響もあって独自の社会や文化が発達し、町人文化が隆盛していくなかで、人々は妖怪などの不思議な存在や伝説、物語に大きな関心を抱くようになり、それらを究明したりビジュアル化して見えるものとして残すといったことが、盛んに行われるようになりました。
そんな妖怪ブームのなかで、河童も大きな関心を集めたのです。

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河童は日本のUMA(謎の未確認動物)!!

ただし、河童は他の妖怪たちとは捉えられ方が大きく異なっていました。それは例えば、人間に害を為すような悪い妖怪や霊的な存在といったものではなく、実際にこの日本のどこかに生息してはいるのだけれども、まだはっきりと確認されていない未知の生物、つまり「UMA(謎の未確認動物)」として考えられることが多かったようなのです。

 
その背景には、江戸時代に盛んになった「本草学」がありました。本草学というのは、ひとことで言えば東洋の博物学のことで、古代の中国に興り奈良時代には日本に伝わっています。江戸時代になると中国・明朝の「本草綱目」(1578年完成)という、主に薬学の集大成本が輸入され、日本でも本格的な本草学の研究が始まります。そしてその関心は薬学から自然界のあらゆる動植物、事象に及び、UMAもその対象となったというわけです。

 

 

本草学の書物に載った河童

「和漢三才図絵」という書物は、江戸時代の中頃(1712年成立)に大阪の医師であった寺島良安という人が編纂した「類書=百科事典」です。扱っている内容は、日本と中国の天文や気象から人間と人間社会、衣服や道具などの様々なモノ、動植物や鉱物から地理まで多岐にわたっており、各項目で分類して考証し図や挿絵を附けて解説しています。

 
その第40巻「寓類(ぐうるい)」の綱目に河童が、日本で初めてその姿を描いた挿絵とともに載せられているのです。
ちなみに寓類というのは、木や穴ぐらなどに棲むものや猿の類いのこと。また同じ第40巻には「恠類(かいるい)」という項目が分類されていて、「恠」は「怪」の俗字ですから、つまり怪しい化け物ということです。恠類ではなくて寓類に分類されていることから、河童が化け物というより未確認動物と考えられていたことがわかります。

 
さてこの和漢三才図絵の河童の解説には、

「川太郎(河童)一名・川童子(かわわらわ)。深山に山童あり。同類の異物なり。性質は好んで人の舌を食う。また鉄物を見るのを嫌う」

と書かれています。

 
「山童(やまわらわ)」は西日本に伝わっている、山の奥深くに現れる妖怪で、河童が山のなかに入ってこの山童になるとも言われているものです。和漢三才図絵の挿絵もそうですが、山童と同類であるという解説や猿の類いを表す寓類という分類に示されるように、どうも当時、河童はサルに近い動物なのでは?と考えられていたのかも知れません。
現代に一般的な河童のイメージとも違う、まさに謎の未確認動物だったようです。

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