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出雲の八岐大蛇伝説と越の国・糸魚川…日本の竜蛇伝説の源流を求めて

龍 竜
 
関東地方や中部地方で発掘される縄文時代中期の土器は、発掘された神奈川県相模原市の「勝坂遺跡」にちなんで「勝坂式土器」と呼ばれています。竜蛇神の巫女かも知れない「巳(ヘビ)を戴く神子」の土偶や「蛇文深鉢」が発掘された「井戸尻遺跡群」の土器も、この勝坂式土器に含まれます。

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勝坂式土器の特徴のひとつは、蛇文深鉢のような蛇の紋様や蛇を模した把手(はしゅ/取っ手)が付けられていることで、この蛇の表現を持った土器は神奈川県の相模川付近、東京の多摩川や八王子付近、長野の八ヶ岳山麓や山梨県から新潟県西端の糸魚川付近に広がっています。つまり縄文時代には、この広いエリアに蛇と関わりの深い文化があったということでしょう。また糸魚川は日本の古代における翡翠(ひすい)の一大産地であり、縄文時代中期の「長者ヶ原遺跡」では、翡翠を加工する工房跡が日本で初めて発見されました。

 

出雲の国と越の国、諏訪をつなぐ伝説

そしてこの糸魚川は、古代の「越(こし)の国(高志国)」の中にあったのです。
越の国で翡翠を支配していたと考えられている女性の神が「沼河比売(ぬなかわひめ/奴奈川姫)」で、古事記や糸魚川に遺る伝承では出雲の国の「大国主命」に求婚され、ふたりの間に生まれたのが「建御名方神(たけみなかたのかみ)」です。建御名方神は後に「国譲り神話」で天津神の「建御雷神(たけみかづちのかみ)」に敗れ、信濃の諏訪に行きます。諏訪では地元の神々(竜蛇神)と戦ってこれを治め、諏訪大社のご祭神になります。
この神話や伝承は、出雲の国と越の国、そして諏訪のつながりを示していると言えるでしょう。

 

八岐大蛇伝説と越の国

日本の神話で有名な「八岐大蛇伝説」は、別の記事でご紹介しました。
高天原から降りて来た天津神でありながら、国津神の国である出雲の国を建国した須佐之男命(すさのおのみこと)が退治した「八岐大蛇(八俣遠呂智)」ですが、さてこのオロチはどこからやって来たのでしょうか?

八岐大蛇については、肥河(ひのかわ、現在の斐伊川)上流に棲むとされたり、氾濫する河川の象徴であるとか、鉄分を多く含む川や鉄をつくるタタラから立ち上る炎のことといった鉄生産との関わりなど、様々な解釈があります。
しかし古事記には、「高志の八俣遠呂智」と記されています。その記述通りであれば、八岐大蛇は越の国からやって来たのです。神話はその中に複数の意味合いが込められている場合が多いですから、八岐大蛇には色々なものが象徴されていることが考えられますが、縄文時代から越の国が竜蛇文化のある地であるとすれば、そこからやって来た八岐大蛇というのは頷けます。

 

竜蛇文化で越族と越の国はつながっていた!?

また、福井県若狭町の「鳥浜貝塚遺跡」から発掘された「赤色漆塗り櫛」に見られる縄文時代のクシの文化や漆の文化は、古代の中国にあった越族の長江文明とのつながりを示している可能性があります。
八岐大蛇伝説で須佐之男命が助け、その後に妻となる国津神の娘は「櫛名田比売(くしなだひめ)」という名前の姫でした。須佐之男命が八岐大蛇を退治するときに、この櫛名田比売をクシの姿に変えて自分の髪に差します。このクシ、そして櫛名田比売はまさに赤色漆塗り櫛に見られるクシの文化の象徴であったのかも知れません。

縄文時代より東シナ海から日本海に流れる対馬海流によって、長江文明の越族と「越の国」を中心としたこの地域とはつながりがあったという説があります。ヘビを「再生」や「生産」「豊穣」など生命の象徴とする竜蛇文化は中国の長江流域にあったとされますが、その竜蛇文化が日本の日本海沿岸の越の国から信濃の諏訪、そして関東まで広がっていたとしたらどうでしょうか。

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