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名だたる武将たちが天狗を崇拝した理由とは?戦国武将と天狗との関係

羽黒山参道杉並木
 
南北朝から室町へと時代が進むと、天狗は世の中の陰から政治を動かし戦乱を巻き起こすような力を持った存在と考えられるようになりました。
それでは日本国内の戦乱が頂点に達した室町時代末期の戦国時代、全国各地に割拠した名だたる武将と天狗はどんな関係にあったのでしょうか。

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この時代、山岳宗教や修験道、密教などと深く結びついた天狗信仰が生まれ、例えば京都の大天狗である愛宕山太郎坊と愛宕権現信仰、信州長野の大天狗の飯綱三郎と飯綱権現信仰、遠州静岡の大天狗の秋葉三尺坊と秋葉権現信仰など、神仏習合のなかで天狗は「権現(仏が日本の神様を仮の姿として現れたもの)」という神様となり多くの信仰を集めます。
そのようななかで、大きな力を求める戦国武将の間でも天狗への信仰が起きたようです。

 

イクサの神=軍神として崇められた愛宕権現

愛宕山の太郎坊は日本一の天狗とされた大天狗ですから、戦国時代に愛宕権現は多くの武将の崇拝を集めたと言われています。特に神仏習合の時代、愛宕権現を祀る白雲寺(現在は愛宕神社)は、仏教の地蔵菩薩のひとつで戦いを司る「勝軍地蔵」を本尊として愛宕権現はその勝軍地蔵の化身である軍神とされたため、多くの武将から信仰されました。

特に東北の戦国大名である伊達政宗の愛宕権現信仰は篤く、その家臣の二代目片倉小十郎重綱は1615年に、大阪夏の陣に出陣する政宗のために京都愛宕山の白雲寺に参詣して戦勝祈願し、やがて願いが叶うとそのお礼に絵馬を奉納しました。その絵馬は火災で焼失後に三代目片倉小十郎によって再奉納され現在に至っていますが、時を経て奉納400年の2015年に復元奉納が行われています。その大きな絵馬に描かれているのは、武将の装束でイノシシにまたがった勇猛な烏天狗の姿の愛宕権現です。

また本能寺の変で主君の織田信長を討った明智光秀は、変の数日前に愛宕山を参詣し連歌の会を行った折、その歌の中で謀反の決意を表したとされています。明智光秀も天狗に謀反の戦勝を願ったのでしょうか。

 

謙信・信玄と飯綱権現

東国の戦国武将といえば、川中島で5回も激突した越後(新潟県)の上杉謙信と甲斐(山梨県)の武田信玄が有名です。この戦国時代を代表する二大武将は信州(長野県)を挟んで長く対立していたわけですが、飯綱権現の飯綱山はまさにその対立する信州の越後に近い北部にあります。

飯綱権現も戦勝の神として信仰され、また「飯綱法」と呼ばれる天狗や狐を使役した妖術を駆使すると考えられていました。とても強い力を持った大天狗であったわけで、謙信も信玄も共に飯綱権現を信仰していたそうです。
例えば武田信玄は、戦の時にはいつも飯綱権現の小さな像を懐の中に入れて、守護神としていたと言われています。

上杉謙信は毘沙門天を信仰していたことで知られていますが、飯綱権現も篤く信仰していたようで、彼の兜(かぶと)の前立(まえだて/頭の部分に付けた武将の目印となる飾り)は飯綱権現の像でした。その姿は、火焔を背に疾走するキツネに乗る黄金色に輝く烏天狗です。謙信のこの前立は出陣の儀式の時に着用したと言われていますから、飯綱権現の力により上杉軍の勝利と加護を願うものだったのかも知れません。

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