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金刀比羅宮は天狗が再建した寺社?~金毘羅さんと崇徳上皇

天狗
 
金毘羅さんの愛称で知られる讃岐国(香川県)の金刀比羅宮(ことひらぐう)は、琴平町の象頭山(標高538m)の中腹にあります。

この神社は大変古い神社で、創建がいつなのかははっきりとはわかりませんが、由緒では神話の時代に大物主命が営んだ行宮(あんぐう/仮の御所)の跡を琴平神社とし、その後に仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現を祀る社となったということです。また飛鳥時代に修験道の開祖である役小角(役の行者)が象頭山に登ったとき、インドの霊鷲山(りょうじゅせん)にいる金毘羅の神験に出会ったことから、金毘羅大権現を祀ったという伝承もあります。

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金刀比羅宮は古くから、瀬戸内海を航行する海上交通の守り神として信仰されて来ましたが、神仏習合後は真言宗の象頭山松尾寺金光院となり、江戸時代には全国各地からの金毘羅参りが盛んになりました。なお、明治以降は神仏分離令によって松尾寺は分離されています。

 

金毘羅さんを再建した天狗

平安末期に保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐に配流されましたが、この象頭山松尾寺金光院に参籠しており、亡くなられたあと合祀されました。怨霊となった崇徳上皇はその後、大天狗のなかの大天狗とされますから、金毘羅さんと天狗の関わりは深かったわけです。

そして戦国時代になると象頭山松尾寺は荒廃してしまいますが、第4代の別当(寺の事務を統括する僧)であり修験僧でもあった金剛坊宥盛が金毘羅大権現への信仰を広め、寺を整備して再興を果たしました。この金剛坊宥盛は、亡くなる直前に象頭山松尾寺を護るために天狗になったという伝説があり、「金毘羅山金剛坊」は讃岐の三大天狗に数えられることになりました。

金毘羅さんはまさに天狗が再建した寺社であり、その後の隆盛を護り続けていることになるわけです。
金剛坊宥盛は明治の神仏分離までは本社や観音堂と並ぶ後堂に祀られていましたが、明治以降は金刀比羅宮の本宮から離れた奥社である厳魂神社に祀られています。

 

天狗の面を背にして金毘羅参り

江戸時代になると、白または鼠色の行者装束に天狗の面を背につけた「金毘羅道者(金毘羅行人)」という行者が全国各地を遍歴して、金毘羅大権現を広めて行きました。

これにより全国各地には金毘羅講という講組織(民間の互助組織)ができ、江戸時代中期ごろには金毘羅参りが盛んになります。金毘羅参りは、伊勢神宮のお陰参り、京参りと並んで人気の高い庶民の参拝行事だったそうですが、東海や関東・江戸からはかなり距離があったことから金毘羅講でお金を積み立て、集まったお金で代表者がお参りする代参が一般的になりました。

この金毘羅参りには背中に大きな天狗面を背負って行き、その面を奉納するのだそうで、例えば歌川広重が描いた「東海道五十三次」の「沼津黄昏図」には、巨大な天狗面を背にした金毘羅参りの親子が、夕方の黄昏どきに沼津の宿に急ぐ情景が描かれていて、当時の様子を伺い知ることができます。

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