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国譲りを成し遂げ大和を平定した布都御魂の謎

刀剣伝説

 

雷と刀剣の神である「建御雷神(たけみかづちのかみ)」から神武天皇に下された「布都御魂(ふつのみたま)」は、その後どうなったのでしょうか。
神武天皇は、国譲りと大和平定に功績のあったこの剣を称え、物部氏の祖先にあたる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)に命じて宮中で祀ります。その後、第10代崇神天皇の7年(紀元前90年?)に、同じく物部氏の祖先の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現在の石上神宮の地に遷して祀り、石上神宮の主祭神となりました。
その後、神話や伝説のなかで布都御魂が人々の前にその姿を見せることはないのですが、それだけにこの霊剣は謎に包まれているのです。

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剣なのか刀なのかという謎

出雲の国譲り神話で建御雷神が登場するシーンでは、建御雷神は出雲国の伊那佐(いざさ)の小浜(現在の出雲市大社町の稲佐の浜)に降り立ち、十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに波頭に突き立て、その剣先にあぐらをかいて座っていました。建御雷神と剣とが一心同体なのを表現しているシーンとされていますから、つまりこのときの十握剣=布都御魂と考えられています。

 
次に時代が下って神武天皇の東征のときに、高天原の建御雷神は「この国を平定した剣」として自らの剣を現世に下されますが、これが布都御魂であり神武天皇へと献上されます。古事記では、これを「横刀(たち)」と記しているのです。

 
日本の刀剣には大きく分けて「剣」と「刀」があり、その簡単な見分け方は両刃のものが剣、片刃のものが刀ということになっています。古代に神聖なチカラを持っていたとされるのは剣であることが多く、布都御魂と「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)」、「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」の日本三霊剣は3つとも両刃の剣であると考えられます。しかし、建御雷神から地上の神武天皇へ下されたのは「横刀(たち)」であると、古事記には記述されていたのでした。

 

 

横刀とはどんな刀剣か?

日本の刀剣のうちの「刀」にはいくつかの種類があります。時代劇で良く見られる、侍が腰に差しているのは「打刀(うちがたな)」と言って、主に徒歩で戦う「徒戦(かちいくさ)」用に作られ室町時代以降は日本刀の主流となりました。刀は長さによって名前が変わり、長いものが「太刀(たち)」、それより短い「打刀」、そして「脇差」「短刀」があります。

 
また日本刀の大きな特徴である反りのある刀は、より斬れ味の良い刀として奈良時代末期から平安時代にかけて作られてきたと考えられていますが、それ以前は真っ直ぐな直刀でした。直刀の時代の刀を「大刀(たち)」と書いて、後の時代の「太刀(たち)」とは区分しています。

 
また「大刀」よりも短い直刀には「横刀(たち)」の字を当てるとされていますが、これは必ずしも長さだけの基準で区分していたとも限らず、長い横刀もあるそうです。
ですから長さとしては何とも言えないのですが、古事記に横刀と記された布都御魂は片刃の直刀であるということになります。

 

 

布都御魂は神聖であると同時に、実際の強さのシンボルだった!?

古代の日本の刀剣は青銅で作られたものから鉄製へと進化し、そして武器としては両刃の剣ではなく片刃の刀が主流となります。これは、剣が主に突き刺すものであるのに対し刀は斬る武器であることから、主役は刀へと移ったと考えられています。剣の方は実際に戦いに用いる武器としてよりも、宗教的な祭器となって行きました。
ですから、神々の時代から人間の時代へと移り変わるなかで、刀剣の神から地上に下された布都御魂は神聖なものであると同時に、戦いの強さも表す「横刀」だったのかも知れません。実際にこの後の時代まで日本の刀剣や武術のシンボルとなったのは、日本三霊剣のなかで布都御魂だったのです。

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