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怨霊から天狗へ…愛宕山に揃った大天狗たちの中心にいたものは?

天狗
 
天狗というのは平安時代には主に、仏法を学びながらも慢心してしまった修験者や僧がなってしまうものとされていました。それが南北朝から室町時代の動乱の時代になると、大きな力を持ちながらもこの世に無念を抱いて死んだ者が怨霊となり、神通力を備えた大天狗へと変身するのだという風に考えられるようになってきます。

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足利家の内部抗争である足利直義と高師直の争いを天狗が仕掛けたという、「仁和寺の天狗評定」に似たお話が、同じ『太平記』の巻27「大稲妻天狗未来記の事」に記されています。この話は怨霊が天狗となった大天狗が一堂に集まる話として有名なのですが、簡単にご紹介しましょう。

 

大天狗の中心にいた「崇徳上皇」

足利尊氏が征夷大将軍となり室町幕府を開いた翌年の1339年の年、各地には異変が起こり、6月には四条河原の勧進田楽で桟敷が倒壊して多くの死傷者が出て、翌日には大雨がその死者を押し流すなど不吉な出来事が多発していました。

出羽の国の羽黒山の山伏である雲景という人が京の都に来たとき、六十歳くらいの山伏に出会い「あなたはどこに行くのか」と尋ねられました。雲景が天竜寺を尋ねるのだというとその山伏は「天竜寺も良いが、私たちが住んでいる山こそ日本一の霊場です。一緒に行きませんか」と誘われます。

雲景が誘われるままに愛宕山に登ると、山頂には白雲寺という立派なお寺があり、その寺の裏手の僧坊の奥にはとても立派な住居があって大勢の人たちが集まっているのでした。
雲景が「どなたたちが集まっているのですか」と尋ねると、案内した山伏は「上座の金色の鳶の姿をしたお方は崇徳上皇です。右脇の大男は筑紫八郎為朝、左の席の上から淳仁天皇、井上皇后、後醍醐院、右の席は諸宗のすぐれた徳のある高僧たちで、玄ぼう、真済、寛朝、慈慧、頼豪、仁海、尊雲などの方々が悪魔王の棟梁となられてここに集まり、天下を乱そうとご相談なされているのです」と教えてくれます。

崇徳上皇は平安時代の天皇で退位した後に上皇となりましたが、保元の乱で敗れて讃岐に流され罪人として扱われて亡くなったことから、祟る怨霊となったといわれています。
その怨霊の崇徳上皇が大天狗の中の中心人物となって、数々の天狗たちを集めているのでした。

 

足利家の内紛を予測する大天狗たち

雲景が尋ねられるままに、四条河原の桟敷の倒壊は天狗の仕業だというウワサが出ていると話をすると、天狗の長老格が「あれは私たち天狗の仕業ではなく、秩序無く様々な身分の者たちを雑居させたことを神々が嘆いて起こしたことだ」と言います。そして、足利将軍の兄弟が天子を軽んじて、またその足利家の執事の高師直・師泰兄弟が将軍を軽んじているいまの世の中はこれから大きく乱れて、やがて父子兄弟が争うような大事件が起きるだろうと教えてくれます。

「それではどうしたらこの世の中は治まるのでしょうか」と雲景が尋ねると、急に身分の高い方が来られたと辺りが騒がしくなり、また日も暮れて来たので暇を乞い寺の門を出ると、あたりは急に明るくなり雲景はもとの京の町に立っていたのでした。

やがて天狗が言う通り、足利直義は高師直を誅殺しようとして失敗し、足利家の内部抗争である「観応の擾乱」が起こります。

このお話で、大天狗たちが集まって集会を行うことで有名な京の愛宕山が出て来ます。以後、愛宕山は天狗の大本山とも言われるような場所として知られるようになりました。

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