> >

エジプト最後の女王「クレオパトラ」のルーツを探る!

hieroglyphics-429863_640
 
古代エジプトの最後の女王クレオパトラ。世界三大美女のひとりとして日本でも広く知られているこの女性の実像は、実はよくわかっているわけではないのです。ちなみに世界三大美女とは、クレオパトラ、中国の唐の時代の皇妃・楊貴妃、そして日本の平安時代の歌人・小野小町とされていますが、三大美女自体は日本が起源のもので世界共通ということではありません。

とはいえ、クレオパトラが類い稀なる美女であったと、古代から多く語られて来ました。しかし単なる美女である以上の形容詞が、クレオパトラに付けられることになります。それは例えば「新しいイシス」「新しいアフロディーテ」。イシスはエジプト神話の女神であり、アフォロディーテはギリシャ神話の女神です。

スポンサードリンク


 
一方でそういった女神の生まれ変わりという表現とは反対に、「妖婦」「王冠をかぶった娼婦」さらには「破滅をもたらす怪物」などという、女王に対してはとても手厳しい形容詞もつけられました。しかしそれは、クレオパトラの波瀾に満ちた生涯を表すものでもあったのです。

 

外敵に侵略される古代エジプト王国末期

クレオパトラが最後の女王となった古代エジプトの王朝は、「プトレマイオス朝」と呼ばれます。この王朝は、ピラミッドの建設で知られる紀元前4200年前から続く古代エジプトの王国とは、実は直接のつながりはありません。

紀元前671年、それまで3500年以上も続いた古代エジプト王国は、メソポタミアの帝国であるアッシリア(後のペルシア)に征服されてしまいます。その後、アッシリアの衰退により古代エジプト王国は再び自立しますが、紀元前525年にはペルシア帝国によって征服され、その後再度独立するもののまた再征服されるなど、常にペルシアの脅威にさらされていました。

そして紀元前332年、ペルシア帝国を滅ぼしエジプトにやってきたのが、マケドニアのアレクサンドロス3世(アレクサンダー大王)でした。

 

クレオパトラの王国のルーツはアレクサンドロス帝国

マケドニアとは古代ギリシャ人の王国で、その王アレクサンドロス3世はペルシア帝国を滅ぼし、大遠征によって東はインドの外辺にまで至る大帝国を築きます。

アレクサンドロス3世は、ペルシアの過酷な統治下にあったエジプトに攻め入ると、ペルシアを駆逐しアレクサンドロス帝国の一部としました。アレクサンドロス3世はエジプト人によって解放者として歓迎され、またアレクサンドロス3世もエジプトの神や風習などの伝統を最大限に尊重しました。そして紀元前331年、エジプトの地中海沿岸にギリシャ風の大都市の建設に着手します。それがアレクサンドロスから名前が付けられ現在もエジプト第2の都市であるアレクサンドリアです。

紀元前323年にアレクサンドロス3世が急逝すると、その部下たちにより後継者争いの戦争が起こり、最終的に3つの国(ヘレニズム3国)に分かれます。そのうちのひとつ、アレクサンドリアを首都としてエジプトを治めたのが、幼少の頃よりアレクサンドロス3世の側近となり学友でもあったプトレマイオスで、彼はプトレマイオス1世としてエジプトの王となり、新たな古代エジプトの王朝である「プトレマイオス朝」を興したのです。

 

クレオパトラはエジプト人ではない!?

プトレマイオス朝は紀元前306年から紀元前30年までの、270年余り続くことになります。そしてクレオパトラは、このプトレマイオス朝の最後の女王というわけです。

プトレマイオス1世はマケドニアのギリシャ人貴族の出身ですから、その子孫であるクレオパトラもエジプトの女王であってもエジプト人ではなく、ギリシャ人の血筋だったわけです。ただし、クレオパトラの人種については諸説あり、純血のギリシャ人であったかどうかははっきりとは判っていません。

トルコのエフェソスで発見された、クレオパトラの妹アルシノエ4世のものとされる墓所から発掘された遺骨の分析から、ギリシャ系とアフリカ系の混血である可能性が指摘されています。しかしこの遺骨が本当にアルシノエ4世のものなのかは判らず、またクレオパトラとアルシノエとは母親が異なるという説もあるので、クレオパトラが混血なのかどうかは謎のままなのです。

このエントリーをはてなブックマークに追加


スポンサードリンク
スポンサードリンク

Comments are closed.