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古代丹後王国の浦島伝説4:現世に帰ったその後も丹波国で行き続けた

浦島伝説

 

「丹後国風土記」に語られた浦島伝説の主人公、浦の嶋子は常世の国の亀姫のもとから300年が過ぎた現世の故郷に帰り、若さを失って老人となってしまいましたが、その後どうしたのでしょうか。
丹後国風土記に記された物語の最後には、浦の嶋子が詠った歌のひとつに「娘(こ)らに恋ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の濱の 波の音(と)聞こゆ」というものがあります。これは「乙女(亀姫)を想って朝に戸を開き外を眺めていると、(懐かしい)常世の国の浜に打ち寄せる波の音が聞こえてくる」という意味の歌です。
つまり嶋子は300年後の故郷に戻ってからも、波の音が聞こえる家に住んで亀姫のことを想っていたということでしょうか。

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嶋子の住んでいた屋敷の跡

丹後国風土記には、浦の嶋子は丹後半島の先端の与謝郡日置の筒川村(現在の伊根町筒川)の人だと書かれています。
この伊根町の本庄浜には平安時代に創建されたという「浦嶋神社」があって、主祭神として浦嶋子(筒川大明神)が祀られ、相殿神には「月読命(つくよみのみこと)」が祀られています。月読命は天照大神と須佐之男命(すさのおのみこと)の兄弟であり、夜を統べる神であるされています。これは、浦嶋子の祖先神が月読命であるからだそうです。
また同じ丹後半島の北西側の付け根の京丹後市網野町も浦島伝説の遺る地とされ、日本海側最大の前方後円墳である「網野銚子山古墳」があり、ここが古代丹後王国の中心地であったのかも知れません。この古墳に埋葬されている人の祖先が、浦嶋子だという説もあります。
この古墳のすぐ近くに浦嶋子の住んでいた屋敷の跡という場所があり、「皺榎(しわえのき)」という古木があってその伝承が遺されています。

 

 

浦島太郎の物語と浦嶋子伝説の違い

それによると、ここは常世の国から帰って来た浦嶋子が住んでいた場所であり、終焉の地であるというのです。
丹後国風土記に記された伝説では、亀姫から開けてはいけないと言われた玉櫛笥(たまくしげ)を思わず嶋子が開けてしまうと、顔がたちまちシワだらけになり、悲しみのあまりそのシワを千切って傍らの木に投げつけます。すると、その木の樹皮が凸凹のシワのようになったということです。それがまさにこの榎の木で、このことから「皺榎(しわえのき)」と呼ばれ現在まで遺っているのだとか。

 
そのほか、網野町には浦嶋子を祀る「嶋児神社」という小さな祠があり、また「網野神社」にも水江浦嶋子神が祀られています。ちなみに網野神社の祭神は水江浦嶋子神のほか、水江日子坐王(みずのえひこいますのみこ)と住吉大神(すみよしおおかみ)。日子坐王は第九代開化天皇の皇子で、丹波国(分離前の丹後国を含む)を征伐したあとこの地に留まったとされています。また住吉大神は大阪の住吉大社をはじめ全国に祀られている海と航海の神様で、この神様は浦島伝説と大いに関係があるのですが、それはまた別の記事でご紹介することにしましょう。

 
このように丹後半島には浦島伝説の主人公である浦嶋子にまつわるものや場所が遺されていて、亀姫と別れ故郷に帰って来たあとも丹後国で暮らし、大きな影響を与えた伝説の人物であったかも知れないということが想像されるのです。

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