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獅子舞の2種類の系統:風流踊から始まった獅子舞

獅子舞

獅子舞の起源には「伊勢大神楽(いせだいかぐら)」の系統とは別に、「風流踊(ふりゅうおどり)」の系統があるとされています。伊勢大神楽をはじめとした伎楽などの神楽や散楽をルーツに持つ獅子舞が、西日本を中心に全国に広がり、風流踊の系統の獅子舞は主に関東や東北の東日本に分布しています。

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2つの獅子舞、どう違う?

その違いは、伎楽系統が2人の演者が一頭の獅子を演じる「二人立」を主に行うのに対して、風流踊系統はひとりで一頭の獅子を演じる「一人立」であるということです。つまり二人立の獅子舞は獅子の身体のなかに2人の演者がすっぽり入っており、一方の一人立の獅子舞では演者は獅子頭を頭から被り、手足はそのまま出しています。また腹には太鼓を抱え手にバチを持つというスタイルも多く見られます。

 

 

派手さを演出した中世の風流踊

風流踊というのは、室町時代に流行した中世芸能です。日本の中世という時代は、例えば鎌倉時代に流行した田楽と猿楽が能と狂言に発展し、また戦国時代の終わりには歌舞伎の源流となるかぶき踊が現れるように、今日につながる芸能の源流が生まれました。風流踊も多くの民俗芸能の源流になったとされています。

「風流(ふりゅう)」とはその中世に流行した美意識のひとつで、人目を驚かす派手で華美な趣向のことで、侘び寂びとは対極にあり、庶民からはじまり武士や公家にまで流行したというものです。ですから風流踊では派手な衣装を着飾り、被り物などで仮装をし、笛や太鼓で囃し集団で踊る、といったものでした。

やがて江戸時代になると風流の美意識からは離れ、踊りを中心とした民俗芸能として各地の地域に伝承されて行きます。山形をはじめ各地で踊られる花笠踊りなども、この風流踊が源流だといわれています。

 

 

東北地方の鹿踊とは

風流踊系統の獅子舞というと、触れておかなければいけないのが「鹿踊(ししおどり)」でしょう。鹿踊というのは簡単に言うと、獅子の頭ではなく鹿の頭を模した被り物を被って踊るもので、主に岩手県と宮城県そして愛媛県宇和島市周辺で伝承されているものです。東北以外になぜ愛媛県宇和島市周辺かというと、江戸時代の宇和島藩は仙台藩の伊達家の分家が幕府から与えられて藩主となったからで、伊達氏の仙台藩の陸奥国領で行われていた鹿踊もともに宇和島に入ったということでしょう。

さてこの鹿踊と獅子舞との大きな違いは、演者が被る鹿頭にあるということです。それではなぜ獅子ではなく鹿なのでしょうか?

もともと日本語で「しし」とは猪(いのしし)や鹿(しし)のことで、従って「獅子舞(踊)」も「鹿踊」も発音では同じ「ししおどり」だということです。東北地方の鹿踊の起源は、死者や怨霊を鎮める念仏踊りにあるといわれ、祖先の霊や自然の精霊を供養する踊りであるとされています。また関東の古社である鹿島神宮や香取神宮の神使(しんし)が鹿であるように、古代日本で特に弥生時代以降、鹿は霊獣と考えられていたことから、鹿をシンボルとする鹿踊が生まれたのかも知れません。

 

 

鹿踊が獅子舞の原点だったのだろうか??

岩手県田野畑村の鹿踊の伝承では、その昔、常陸国(茨城県)の霞ヶ浦に雷神で剣の神である建御雷神(たけみかづちのかみ)が降り立ったとき、建御雷神を襲って土地の先住民が野に火を放ちましたが、そのとき無数の鹿が突如現れ、水に入って身体を濡らして火中を駆け巡り、火を消し止めたのだそうです。

この出来事に感銘を受けた建御雷神は鹿踊を創始し、後に蝦夷に備えるために武蔵国から田野畑村に入った畠山一族がこの地に伝えたのが田野畑村の菅窪鹿踊だということです。
建御雷神は鹿島神宮の主祭神であり、また出雲の国譲りの神話で出雲国を譲り受ける役目を建御雷神に伝えに行った、天照大神の使者・天迦久神(あめのかぐのかみ)は、鹿の神霊とされています。

起源を伝える伝承は後付の場合もありますが、獅子舞と同じく風流踊を起源に持つといわれる鹿踊の原点が、じつは獅子舞よりも遥かに古く古代からあり、やがて獅子踊や獅子舞になって行ったのかも知れません。

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