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浦島太郎のルーツを探る(1)常世の宮に行った海人族の神様

浦島伝説

 

浦島太郎の物語の元となる浦島伝説は、「日本書紀」と「丹後国風土記」そして「万葉集」にありました。主人公の浦島太郎の元となったのは浦の嶋子という人で、古代に海人と呼ばれる海に生きる人だったと思われます。
それではさらに遡って、この浦の嶋子と浦島伝説のルーツがあるのでしょうか。じつはそうではないかとされる人物(神様)が神話のなかにいるのです。

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丹後半島にある伊勢神宮の元になる神社

京都府宮津市の大垣というところに、「籠神社(このじんじゃ)」というとても古い神社があります。宮津市は名勝の天橋立があることで良く知られていますが、籠神社は天橋立の北側、つまり丹後半島の付け根の位置にある神社です。浦島伝説があるのは丹後半島の先端の与謝郡伊根町や西北側の京丹後市網野町ですが、網野町とはちょうど反対側になるわけです。

 
この籠神社は、「元伊勢籠神社」とも言います。「元伊勢」とは、伊勢神宮の祭神である天照大神が初めは宮中で祀られていたのを、崇神天皇6年(BC92年?)に皇女の豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)によって宮中の外で祀られることになり、豊鋤入姫命が各地を巡幸し一時的に天照大神をお祀りした二十数ヶ所の神社のことを言います。籠神社は、そのうちのひとつの「吉佐宮」です。その後、垂仁天皇の皇女である倭姫命(やまとひめのみこと)に受け継がれ、現在の伊勢神宮内宮が創建されました。

 
またこれとは別に、雄略天皇の時代に天照大神のお告げで丹波国(後の丹後国)の魚井原(まないはら)で丹波道主(たにわのみちぬし)の娘の八乎止女(やおとめ)によって祀られていた豊受大神(とようけおおかみ)が、天照大神の食事を司る神として伊勢神宮外宮に祀られました。もともと豊受大神を祀っていた魚井原の宮が「真名井神社」で、こちらも「元伊勢」と呼ばれ、この真名井神社が籠神社の奥宮となっています。
つまり籠神社は、天照大神と豊受大神の二重の元伊勢となるわけです。

 

 

浦島太郎のルーツかも知れない神様

同じ丹後半島にある籠神社が、それでは浦島伝説とどのような関係があるのでしょうか。
籠神社の主祭神は「彦火明命(ひこほあかりのみこと)」という神様なのですが、なぜ籠神社という名称になったかというと、彦火明命が竹で編んだ籠(かご)の舟に乗って海神の宮(常世の国)に行ったという伝承に拠っているからなのだそうです。

 
彦火明命は、天照大神の息子である天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)の子供で、天孫降臨神話の邇邇芸命(ににぎのみこと)の兄とされています。
籠神社に伝わる系図では、代々の社家である海部(あまべ)氏の始祖が彦火明命であるとしていて、海部氏はその名前の通り丹波国(丹後国を含む)の海人集団を率いる豪族であったと言われています。

 
また彦火明命の曾孫に「倭宿禰(やまとのすくね)」(椎根津彦)がいますが、神武天皇の東征のときに現在の明石海峡で大和国への海路を導いた功績により、倭宿禰の名と倭国造の地位を授かり大和政権の有力豪族になります。
この倭宿禰が神武天皇の前に現れたとき、なんと亀の背に乗っていたというのです。現在の籠神社には亀に乗った倭宿禰の像がありますが、それはまるで浦島太郎を彷彿とさせる姿です。

 
このように丹後半島の海部氏の祖神である彦火明命、あるいはその曾孫の倭宿禰には浦島太郎を思わせる伝承が伝わっていて、もしかしたら浦島伝説のルーツと言えるかも知れません。
ちなみに、この籠神社の魚井原の宮から豊受大神が伊勢神宮に迎えられたのが雄略天皇22年のことで、その年は日本書紀に浦島伝説の記述がある同じ年なのです。

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