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吸血鬼事件(2)吸血鬼カーミラのモデルとなった貴族夫人

吸血鬼

黒魔術に耽溺し、多数の少年を陵辱・虐殺したジル・ド・レエの事件から170年後の1610年、ハンガリー王国の名門貴族ナダスディ家が持つツェイテ城の地下室から、血を抜かれ山と積まれた女性の死体が発見されました。このツェイテ城こそが、後に19世紀の怪奇小説「吸血鬼カーミラ」のモデルになったという血の伯爵夫人・エリザベート・バートリーの城だったのです。
1610年と言うと日本では関ヶ原の戦いの10年後、徳川幕府と大阪の豊臣方が対立し、大阪夏の陣で豊臣家が滅びる5年前のことです。

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トランシルヴァニア出身の名門貴族夫人

エリザベート・バートリーは、ハンガリーのトランシルヴァニア公国の有力貴族バートリー家の娘として1560年に生まれました。ポーランド王ステファン・バートリーの姪でもあり、トランシルヴァニア公やハンガリー王国宰相の従姉妹でもある、まさに名門中の名門の子女です。

トランシルヴァニアと言えば、最も有名な吸血鬼ドラキュラの故郷でもありますが、ドラキュラについてはまた別の記事でご紹介することにしましょう。

さて彼女は、ハンガリー貴族のフェレンツ・ナダスディ2世と結婚します。3男3女をもうけ戦争で不在の夫に代って広大な領地を管理し、他国に遊学する学生たちを援助するなど、とても優れた領主夫人だったようです。

しかし、オスマン帝国との長引く戦争によって夫が頻繁に領地を離れるようになると、多くの愛人を持つようになり、自分自身の若さと美貌を保つことに執着するようになっていきました。それでも夫婦仲は悪くなかったのですが、1604年に夫は亡くなってしまいます。
夫との死別によってエリザベートは、贈与され自分の所有となっていたツェイテ城に居を移すのですが、ここから彼女の残虐行為が本格的に始まってしまうのです。

 

 

残虐行為は、娘の血を浴びれば若さと美貌が保てると信じたことから始まった

初めは召使いに対する折檻でした。まだ夫が生きていた頃のある日、侍女に髪を梳かせていましたが、それが下手だったのを理由に血が出るまで殴り、自分の手に侍女の血がついてしまいます。血を拭ったそのときに、エリザベートはなぜか血のついていた部分がすべすべしているように思えたのだそうです。

それがきっかけとなったエリザベートは、侍女の服を脱がしてタライのなかで殴り切りつけ、流れた血をタライに溜めてその血を浴びるという行為をするようになります。血を身体に浴びることによって、若さと美貌が保てると信じ込んでしまったのです。

夫が亡くなりツェイテ城に移ってからは、領地の農民の娘を誘拐しては監禁し、「鉄の処女」と呼ばれる拷問道具などで殺害して血を浴びるなど、その行為はエスカレートして行きました。

ついには、礼儀作法を習わせるという名目で下級貴族の娘にも手を伸ばします。それまで、薄々気づいていながら名門貴族におもんばかって内密にしていた役人たちも、貴族の娘にまで魔手が伸びさらには地元の牧師に告発され、また監禁されていた娘のひとりが脱走するという出来事に及ぶと、ようやく捜査に着手したのでした。

 

 

露見した歴史上稀に見る残虐事件

犠牲となった娘たちは、600人を超えたとされます。城からは多くの死体と、わずかながら生き残った娘が助け出されました。

エリザベートのベッドの周りには、流れた血を吸い込ませるために灰がまかれていたといいますから、どれだけ多くの血を浴びていたのでしょうか。娘の身体に噛みつき、血肉を食べたとも、黒魔術を行っていたとの証言もありました。エリザベートの一族には悪魔崇拝者や色情狂がいたともいわれますが、バートリー家は血族結婚を繰り返した歴史があり、その影響だという説もあります。

事件は終焉し、犯行を助けたとされる従僕は斬首刑、2人の侍女は火炙り刑になりましたが、エリザベートは高貴の家柄ということで死刑を免れました。扉と窓を漆喰で塗り込めた自分の寝室に幽閉され、3年半後に死亡します。
いずれにしろ歴史上稀に見る残虐事件であり、エリザベートは後世まで女吸血鬼として語り継がれることになりました。

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