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龍の色の謎 ー 青龍はいつどうして生まれたのか?

青龍

赤い龍と玉(ぎょく)、そして女神を崇拝する畑作狩猟牧畜文化の「遼河文明」(紀元前6200年頃から紀元前500年頃)の人々の中国大陸の南下は、稲作漁労文化で太陽を崇拝する「長江文明」(紀元前14000年頃より紀元前1000年頃まで)との出会いであり、もしかしたら長い対立抗争であったのかも知れません。

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受け継がれていく本来の龍

しかし、長江文明の中心的な担い手であったと思われる「苗族(みゃおぞく)」の人びとは、終には山岳地帯の少数民族となり、南下した遼河文明の人びとのその後の足跡もよくわかりません。後の中華文明へとつながるのは、もう一つの古代中国の文明である「黄河文明」(紀元前5000年頃より紀元前1600年頃まで)の担い手、漢民族が中心ということになるのでしょうか。

そして、遼河文明の森の神として始まった龍は、長江文明では地位が下がって水の神の龍蛇神となったようですが、本来の龍は中華文明へと受け継がれて行きました。

古代の長い時を経て赤龍から青龍へ

遼河文明で誕生した中国大陸最古の龍は「赤龍(紅龍)」でしたが、長江文明との出会いと対立抗争、黄河文明から中華文明への継承という長い時間の流れのなかで、どうやら本来は草の色である緑色を表す「青龍」へと変化し、落ち着いて行ったようです。

そこには遼河文明と、長江文明、黄河文明という中国大陸における3つの古代文明、更には大陸各地の様々な文化や民族の出会いと交流や争いが大きく作用しています。
天と地の各方位を司る四神のひとつ、東方の霊獣(神獣)である青龍は、四神の考え方の基である「陰陽五行思想」が「春秋戦国時代」の頃に発生したということですから、紀元前770年から紀元前221年の「秦」が統一されるまでの時代には、その姿を現していたということになります。

実際にはそれよりももっと以前の時代に、龍とは青い(草の緑色の)龍であるということで落ち着いていたのではないでしょうか。

龍の姿かたちこそ、青龍へと至る古代の龍の足跡

現在、どなたでも思い浮かべる龍の姿が、様々な動物の各部を合体したものであることをご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか。以前にも龍を扱った記事でご紹介したことがありますが、例えば「南宋」(1127年から1279年)の時代の博物誌である羅願という人の「爾雅翼(じがよく)」には、龍の姿が次のように解説されています。

龍は「三停九似」、つまり首から腕の付け根、腰、腰から尾の3つの部分の長さ(三停)が等しく同じであり、龍の9つの部分がそれぞれ他の動物に似ている(九似)ということです。9つの部分とは、ツノは鹿、頭は駱駝、耳は牛、眼は兎または鬼(幽霊)、身体は蛇、鱗は鯉、腹は蜃(蛟/みずち)、掌は虎で爪は鷹であると。蜃(蛟/みずち)とは、水神ともされる龍蛇で、蛟龍とも言います。

この様々な動物に似た龍の部位は、つまりは様々な動物が合体して龍となっているとも言え、それは古代中国大陸の様々な地域の文明や文化、宗教が融合した姿であるからという説があります。遼河文明の猪龍はいませんが鹿龍の鹿はツノに反映され、おそらく兎や牛は狩猟や牧畜を象徴しているのかも知れません。

一方で身体の蛇や腹の蜃(蛟)は、南方の長江文明から来ていることを思わせます。そのほか、河川での漁労に関係する鯉や獰猛な猛獣である虎、猛鳥の鷹、あるいは中国よりも西方の駱駝と、まさにバラエティに富んでいるのです。
このような姿となり青龍として統一された龍は、まさに中国大陸で諸族や諸文化を従えた皇帝のシンボルとなったのでした。

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