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龍の色の謎 – もとは猪や鹿の頭を持つ赤龍だった?

青龍

中国東北地方の古代文明である「遼河文明」(紀元前6200年頃から紀元前500年頃)。そこから誕生した龍は「赤龍(紅龍)」であり、そして猪や鹿などの頭を持った龍でした。
つまり、赤龍(紅龍)が大もとの龍であり、その姿はイノシシや鹿などの地上の動物の頭を持った姿をしていたということでしょうか?
四神で天と大地の東方を司る「青龍」は、草の色をした緑色の龍。この青龍が、こんにちわたしたちが一般に龍をイメージするときの色であり姿なのですが、それでは中国で龍の起源と思われる赤龍(紅龍)やイノシシの頭の「猪龍」が、どのように青龍へと変わって行ったのでしょう。

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赤い龍と玉、そして青い目の女神がいた遼河文明

遼河流域を舞台とした遼河文明は、畑作狩猟牧畜の文化であるとされています。今から7000年、8000年も前の中国東北地方は、現在とは違って豊かな水資源と森林のある地帯だったそうです。しかし、もちろん稲作文化はなく原始的な畑作や狩猟と牧畜が主であり、そこで崇拝されていたのは龍と玉(ぎょく)、そして女神でした。

遼河流域に栄えた「紅山文化」(紀元前4700年頃から紀元前2900年頃)からは、ヒスイで作られた猪龍の玉製品や青い目をした女神像が発見されています。このような出土品や文化から、遼河文明はのちに中国文明の担い手となる漢民族とは異なる人たちの文明ではないか、という説もあります。

また、この紅山文化と日本海を挟んで縄文時代の日本との長い交流があった、とも考えられています。ちなみに、もっと後の時代になるのかも知れませんが、古代日本の「越の国」(北陸地方)のヒスイ文化と女神の「沼河比売(ぬなかわひめ)」の伝説、あるいは越の国から出雲にやって来たという「八岐大蛇(やまたのおろち)」のお話なども気になるところですが、本筋から離れるのでやめておきましょう。

故地を捨て南下して行った遼河文明の人々

今からおよそ7000年から5000年前の地球は、「ヒプシサーマル」と呼ばれる「完新世(最後の氷河期が終わった1万年前から現在に至る時期)」で最も温かい時期でした。中国でも最も寒冷な地域である遼河流域は、遼河文明の最盛期にはとても温暖な場所だったのです。この頃の日本列島では「縄文海進」という、海が内陸まで入り込んでいた時期でした。

しかし、このヒプシサーマルが終わると地球の気温は下がっていき、それによって遼河文明も衰退していきます。そこで遼河文明の人々は温暖で快適な新世界を求めて南下して行ったのではないかと考えられています。

それは今から、およそ5700年前の頃のことでした。
大陸を南へと旅して行った遼河文明の人々が最終的に向き合ったのが、中国のもうひとつの古代文明である「長江文明」(紀元前14000年頃より紀元前1000年頃まで)でした。もともと温暖な地である長江文明は稲作と漁労の文化。それにより崇拝する対象も、畑作狩猟牧畜文化の遼河文明の人々とは大きく異なっていました。それではこの地で遼河文明の赤龍(紅龍)は、はたしてどうなったのでしょう。

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