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万葉集の浦島伝説「詠水江浦嶋子一首」ふたつの浦島伝説を繋ぐ神社

浦島伝説

 

浦島太郎の物語の元となる浦島伝説の最も古い記述がある「日本書紀」と「丹後国風土記」がまとめられたのとほぼ同じ頃、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された日本最古の和歌集である「万葉集」に、もうひとつの浦島伝説がありました。
それは高橋虫麻呂という歌人の長歌で、「詠水江浦嶋子一首」という作品です。
日本書紀や丹後国風土記に語られた浦島伝説との最も大きな違いは、主人公である浦の嶋子の住む場所が片や日本海側の丹後半島(京都府)、虫麻呂のものは瀬戸内海側の摂津の住吉(大阪市)だったということは別の記事に書きました。
今回はその続きを、別の視点からご紹介することにしましょう。

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2つの浦島伝説と2つの海のルート

古来、畿内地方から日本と朝鮮半島や大陸とを結ぶルートは、日本海ルートともうひとつは瀬戸内海から北九州を経て行く2つの海のルートがありました。つまり、舞台が異なる2つの浦島伝説は、この2つの海のルートに分かれていることになります。
正しいかどうかは分かりませんが、日本書紀で浦島伝説が記されている雄略天皇22年は機械的に置き換えると西暦478年のこと。この時代は3世紀の卑弥呼と邪馬台国の時代のあと、大陸側の記録がなくなる謎の4世紀を経て「倭の五王」が記録される5世紀のことで、雄略天皇は倭の五王のうちの「武」とされる天皇です。

 
一方、海のルートの向うの朝鮮半島は、「百済」「新羅」「高句麗」の三国と南端の「伽耶諸国」に分かれ、特に南部の百済、新羅、伽耶は日本と深い関係にあったと考えられています。交易・外交のルートとして新羅とは日本海ルート、百済とは瀬戸内海・北九州ルートというのが有力な説で、またこの新羅=日本海ルート、百済=瀬戸内海・北九州ルートは、古代日本のなかでは大きく対立していたとも考えられています。

 

 

2つの浦島伝説をつなぐ?住吉大神

丹後半島で浦嶋子が祭神となっている「網野神社」(京丹後市網野町)には住吉大神(住吉三神)が祀られているのですが、万葉集の高橋虫麻呂の浦島伝説の舞台である住吉(すみのえ)には、その住吉大神(住吉三神)の大もとである「住吉大社」があります。
住吉三神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊(みそぎ)から生まれた「底筒男命(そこつつのおのみこと)」、「中筒男命(なかつつのおのみこと)」、「表筒男命(うわつつのおのみこと)」という三柱の水神=海と航海の神様で、古代に海人と呼ばれる海に生きる人々や一族の守り神でした。

 
また、住吉大社で住吉三神と並んで祭神となっているのが「三韓征伐」を行ったという伝説がある「神功皇后」で、三韓征伐の三韓とは百済、新羅、高句麗の三国のこと。その神宮皇后の傍らで助けていたのが、「武内宿禰(たけうちすくね)」という伝説の人物です。神功皇后摂政11年(211年?)創建の摂津の住吉大社よりも古い、仲哀天皇9年(200年?)創建とされる長門の住吉神社(下関市)には、住吉三神のほか神功皇后、応神天皇(神功皇后の息子)と武内宿禰も祭神となっています。

 
住吉大神(住吉三神)はなかなか謎の多い神様なのですが、この武内宿禰がじつは住吉三神のうちの中筒男命のことであるとか、いや武内宿禰こそが浦島太郎のモデルとなった人物だといった様々な説があるのです。このあたりのことについては、またあらためてご紹介することにしましょう。

 

 

浦嶋子に対して下される厳しい評価

万葉集の虫麻呂の浦島伝説と、丹後国風土記に語られた浦島伝説との違いでもうひとつ注目したいのが結末の部分です。虫麻呂の長歌では、浦嶋子が最後に玉櫛笥(たまくしげ)を開けてしまうと、中から出て来た白雲(白い煙?)が常世の国へとたなびいて行ってしまい、浦嶋子はその白雲を引き止めようと走り、叫び、転げ回り、気を失って老人の姿となり、やがて息絶
えてしまうのです。

 
丹後半島の伝説では、浦嶋子は老人となった後も故郷で暮らしたことが伺えますが、もうひとつの浦島伝説では、嶋子はあっという間に死んでしまいます。そして虫麻呂は、「常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣太刀 汝(な)が心から おそやこの君」と反歌(長歌のあとに添える短歌)を詠みます。この歌の意味は、「常世の国にいつまでも暮らせるものだったのを、自分の浅はかさからこんなことになってしまって、なんと愚かな者だろうか浦嶋子は」というものなのです。
もうひとつの浦島伝説では、哀しいラブストリーの主人公だった筈の浦嶋子に対して、このようになんとも手厳しい評価が下されていたのでした。

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