海に沈んだ草薙剣。平家物語でも語られている八岐大蛇との関連性
2014年3月、20年ごとに社殿を一新する「式年遷宮」の年に、伊勢神宮を参拝するため天皇、皇后両陛下が三重県伊勢市を訪れました。
熱田神宮に祀られている草薙剣
このときに皇位のしるしである「三種の神器」の剣と璽(じ:勾玉)も持参され、20年ぶりに剣と璽が皇居外に持ち出される「剣璽動座」が行われました。この「剣璽動座」は、戦前までは天皇の宿泊を伴う地方訪問には必ず行われましたが、戦後は警備上の理由などから伊勢神宮参拝にのみ行われるそうです。
三種の神器の剣は当然「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)=草薙剣(くさなぎのつるぎ)」ということになりますが、草薙剣は熱田神宮にご神体として祀られています。しかし今回の「剣璽動座」では、剣と璽は天皇、皇后両陛下と共に皇居を出発して、新幹線の臨時列車で名古屋まで行き、そこから近鉄特急に乗り換えて伊勢へと向かいました。
つまり、この草薙剣は熱田神宮にある本体ではなく、古代より天皇と共にある形代(かたしろ:本体に代って神霊が宿る依代)であるということになります。
敗れた平家と共に海に沈んだ草薙剣
草薙剣の形代は古代の崇神天皇のときに、本体が天皇の宮の外に移されたときに造られたとされています。つまりもうひとつの草薙剣があって、この剣が三種の神器として常に天皇と共にありました。
平安時代末期、時の権力を握った平清盛は娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇に入内させ、産まれた孫をわずか数え年3歳で安徳天皇として即位させました。やがて源平の合戦が起こり、安徳天皇は劣勢の平家一門と共に都落ちし、壇ノ浦の戦いへと至ります。
ここで平家は敗れ一門は滅亡しますが、このとき祖母の平時子(二位尼)は安徳天皇と共に都を離れていた三種の神器の剣と璽を身につけ、安徳天皇を抱きかかえて壇ノ浦の海へと身を投じたのでした。剣と璽は、尼とこのとき8歳の幼い天皇と一緒に海中へと沈んで行ってしまったのです。
しかし璽は入れ物に入っていたために海上に浮き上がり、片岡太郎経春という源氏の武士がなんとか取り上げました。また三種の神器のもうひとつ、鏡(これも形代)は平重衡の妻の大納言の佐殿が持って海に入ろうとしたところを、取り押さえられました。
このようにして、璽(勾玉)と鏡は無事に回収されたものの、草薙剣の形代は海の底へ沈んでしまったのです。
草薙剣が還って来たという伝説
なぜ草薙剣だけが海に沈んでしまったのか?ある博士の考えとして、もともと体内に草薙剣を宿していた八岐大蛇(やまたのおろち)が剣を惜しむ気持ちが深く、8つの頭と尾を示して人王80代(安徳天皇は神武天皇の次の綏靖天皇から数えて80代目)、8歳の天皇となったときに取り返したのだ、という説が「平家物語」で語られています。
それでは海に沈んだ草薙剣の形代は、その後どうなったのでしょうか。
南北朝を舞台にした「太平記」には、伊勢国の円成(えんじょう)という山法師が伊勢神宮への千日参詣の満願の日に、身を清めるために行った磯でこの剣を見つけたという話が載っています。
その場にいた12、3歳の童子が神懸かって言うには、天照大神が龍神に返すように神勅を下されたのだとか。この剣は朝廷に差し出されましたが、いったん本物であると判定され天皇に献上されたものの、上皇が院宣を覆して真偽判定に一役買った平野神社に戻されたそうです。この剣がその後、どうなったのかはわかりません。
現在宮中の「剣璽の間」にある草薙剣の形代は、壇ノ浦の海に沈む以前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を、あらためて形代としたものだということです。