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安倍晴明の強力なライバル、道摩法師とは?

安倍晴明

「今昔物語集」で語られている安倍晴明のエピソードには、晴明のチカラを試そうと2人の少年の姿をした式神を連れて訪ねて来る法師の身なりの老人の陰陽師が登場します。この老陰陽師は、いわゆる「法師陰陽師」で播磨の国(兵庫県)からやって来たということです。
播磨の国出身の法師陰陽師と言えば、江戸時代の文楽や歌舞伎の演目で有名な「芦屋道満」という安倍晴明の最大のライバルともいえる陰陽師が有名ですが、それでは法師陰陽師やその代表格である道摩法師=芦屋道満とは、どんな人物だったのでしょうか。

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法師陰陽師とは何者か

平安時代の中頃、安倍晴明が活躍した時代には、晴明に代表される陰陽寮の官人陰陽師(公的な役職の陰陽師)とは別の系統として法師陰陽師と呼ばれる人たちがいました。

 
彼らはもともと仏教の僧侶身分なのですが、人々の望みに応じて祓えや祈祷、占いなどを行う民間の陰陽師でした。ときには、個人の怨みを晴らす、ライバルを引きずり降ろすなどのために呪詛を請負うなど、ダークサイドの仕事も行っていたといわれます。当時の絵巻物などに描かれたその姿は、法師の衣装で丸めた頭には紙の冠をかぶっており、これは神々が僧侶の坊主頭を嫌ったからなのだとか。清少納言の「枕草子」には「見苦しきもの」のひとつとして法師陰陽師があげられていて、貴族社会では社会の裏側の存在として扱われていたのかも知れません。

 
しかし、安倍晴明を筆頭とした官人陰陽師は都にわずかに20人強ほどの人数しかおらず、天皇や有力貴族のための仕事で手一杯だったでしょうから、下級貴族や庶民にとって民間の法師陰陽師は重宝な存在でした。

 

 

民間の陰陽師のふるさととされる播磨国

今昔物語集の法師陰陽師は「智徳法師」という陰陽師とされていますが、その出身である播磨国は民間の陰陽師のふるさとと言われています。播磨国には古くから民間陰陽師の集団があったそうで、芦屋道満も播磨国岸村(兵庫県加古川市)の出身とされ、芦屋道満と智徳法師は同一人物という説もあります。

 
その智徳法師や芦屋道満などの播磨国の陰陽師の大もとが、飛鳥時代に創建されたという「金剛城寺(滋岡寺)」(兵庫県神崎郡福崎町)」だそうです。このお寺がある「七種山」にはむかし「滋岡川人(しげおかせんにん)」という修行者が住んでいて、干ばつのときに7つの作物の種を人々に与え飢餓から救い、この種は尽きることがなかったと言います。

 
聖徳太子の命により日本で仏教の「三論宗」の開祖となった高麗僧の「恵灌」が寺を建立しようとこの地を訪れると、滋岡川人から十一面間観音を刻んで安置するように言われ、滋岡寺を創建したと伝えられています。大陸の陰陽術を修得していた恵灌と独自に陰陽術を修行していた滋岡川人が出会い、この2人が播磨国の陰陽師の始祖となったという伝承が遺されているのだそうです。

 
実在の陰陽師である滋岡川人(しげおかかわひと)は、平安時代前期に朝廷の陰陽寮の陰陽頭になった人で、陰陽道のもととなる多数の著作を著したとされています。恵灌は飛鳥時代の625年に来日した僧ですから両者の時代は異なり、播磨国の滋岡川人と陰陽頭の滋岡川人が同じ人物とは思えませんが、播磨国に民間陰陽師の起源となる流れがあったのは間違いないようです。

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