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蜂子皇子の伝承と出羽三山に棲んでいた大天狗・羽黒山三光坊

不思議体験
 
日本にはいろいろな三大○○がありますが、江戸時代の修験道の世界で紀伊(和歌山県)の熊野三山、豊前(福岡県/大分県)の英彦山と並んで「日本三大修験山」のひとつとされたのが、出羽(山形県)の「出羽三山」です。また出羽三山は「東国三十三ヵ国総鎮守」ともされ、東北から関東一円を含めた山岳信仰の中心地でした。

出羽三山を構成する月山・羽黒山・湯殿山の3つの山は、月山(標高1,984m)を主峰にその南西山腹に湯殿山(標高1,500m)、また北西山麓に羽黒山(414m)が位置しています。それぞれの山頂には「月山神社」「湯殿山神社」「出羽神社(羽黒山)」とそれぞれ神社があり、この3つの神社を合わせて「出羽三山神社」と総称されています。

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出羽三山は飛鳥時代初めの593年に、都からはるばるやってきた第三十二代崇峻天皇の第三皇子である「蜂子皇子(はちこのおうじ)」が「羽黒権現」の神験に出会って開山したとされ、以来、神仏習合と八宗兼学(天台宗や真言宗など8つの宗派の教義を併せて学ぶ)修行の山として、江戸時代には多くの信徒が三山詣でを行いました。

出羽三山には多くの天狗がいたと考えられていますが、そのなかで大天狗とされたのが、天狗経の48天狗では「羽黒山金光坊」と呼ばれる天狗です。

 

羽黒山の三天狗

ただし羽黒山の大天狗では、出羽三山の山々や修験者を護る天狗たちを統べていたとされる「羽黒山三光坊」という天狗も有名で、また羽黒山三光坊の眷属(配下)に「水天狗円光坊」という天狗もいました。

金光坊と三光坊のどちらが出羽三山の天狗の統領だったのか、また同じ大天狗だったのか違う天狗なのかはよくわかりませんが、出羽三山にはそれほど多くの天狗がいたということでしょう。

水天狗円光坊は、珍しく「水天狗」という種類の天狗とされています。この天狗は、羽黒山に参拝する人たちが乗る最上川の往来船を護っていた天狗だそうで、そのために水天狗とされていたのでしょう。

 

出羽三山開祖・蜂子皇子と天狗との関係

さて、出羽三山の開祖と伝えられている蜂子皇子という方ですが、この皇子がなかなか不思議な存在なのです。
あらためて蜂子皇子の伝承をご紹介すると、592年に父である崇峻天皇が蘇我馬子によって暗殺され、蜂子皇子は馬子の手から逃れるために船で日本海を北に向かい、出羽国の由良(山形県鶴岡市)に辿り着きます。そこで八乙女浦の舞台岩という岩の上に8人の乙女が神楽を舞っているのを船から眺め、その美しさに惹かれて出羽の地に上陸。その後、この海岸から八咫烏(やたがらす/三本足の烏)に導かれて羽黒山に登り、そこで羽黒権現の神験に出会って出羽三山を開いたということです。

また蜂子皇子は五穀の種を出羽国に伝えて農業を教え、産業を興し、病を治す方法を教えるなど、人々のために多くの功績を残します。民のすべての苦悩を除くということから「能除太子」と呼ばれ、亡くなられた後は蜂子神社のご祭神となりました。

特に不思議なのはその姿で、蜂子皇子御尊影に描かれている顔は浅黒く、口は耳まで裂け、大きな目に大きな鼻を持った、皇子らしからぬなんともおそろしい風貌をしています。これには多くの人々の悩みを聞いたから、そういう顔になってしまったのだという説があります。

しかし蜂子皇子こそが出羽三山の大天狗・羽黒山三光坊であるとも言われており、苦しい修行によって大天狗になるとともに、このような風貌になったのではないかとも考えられます。

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