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崇徳上皇を怨霊に変えた激しい怒りの理由とは?大天狗・崇徳上皇の謎


 
平安末期、崇徳上皇は保元の乱で周囲に担がれるままに敗者となり、罪人とされて讃岐の直島という田も畠もない無人島同然の島に流され、日々写経三昧の生活を送ることになってしまいました。
門は鎖でつながれ、人の出入りも許されず、わずかな数の女房が身の回りの世話をする寂しい暮らしであったといいます。

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そんな後半生を送ることになった崇徳上皇が、なぜ怨霊の中の怨霊、大天狗の中の大天狗とされるようになったのでしょうか。それにはこんな話が伝えられています。

 

怨念の引き金となった五部の写経本

崇徳上皇は讃岐の直島に配流され、深く仏教に帰依しながらもそのあまりの寂しさや自分の現在の境遇を思い、毎日嘆き暮らしていました。
その様子を哀れに思った讃岐の国司らが取りはからって、やがて直島から志度の鼓の岡というところに御所を移されます。しかしそれでも、崇徳上皇の嘆きが収まることはありませんでした。

毎日胸が裂けるように我が身を嘆き、京の都のことを思う崇徳上皇はある日「五部大乗経」という経本を書写して、今は亡き鳥羽法皇の御陵に奉納することを思いつきます。
鳥羽法皇は実の父ではないという噂があったにせよ、公式には亡き父であることは確かです。その父の御陵に「五部大乗経」の写本を奉納すれば、もしかしたら誰かが自分の恩赦を取りはからって京の都に戻れるかも知れない。崇徳上皇はそう考えて写経に取りかかります。一説には、自分の小指を噛みちぎって、その血で写経を行ったという話もあります。

保元の乱の死者への供養と自らの反省の気持ちも含め、崇徳上皇はこの五部大乗経を完成させ朝廷へと送りますが、後白河天皇の側近の信西はこの経本には呪詛が込められているのではないかと疑い、突き返してしまうのです。

 

生きながら天狗になった崇徳上皇

この仕打ちに崇徳上皇は激しく怒りました。
「願わくば、日本国の大魔縁となって、皇を取って民とし民を皇となさん」(大魔王となって、天皇を平民に落とし、平民を天皇のような地位としてやろう)と、舌を噛み切って流れ出た血を墨に混ぜて送り返された五部大乗経に書いたと言われています。
その姿も、髪に櫛を通すことなく、爪も切らず、生きながら天狗になったようだと「保元物語」は書き記しました。

その後、1164年に崇徳上皇は46歳で讃岐の地に亡くなります。
後白河天皇はその死を無視し、葬儀は讃岐の国司らの手で行われ朝廷は関与しませんでした。崇徳上皇は亡くなって後も罪人とされていたのです。

 

崇徳上皇の怨霊に脅かされる

崇徳上皇が亡くなったのち、京の都では大火災(安元の大火)や鹿ヶ谷の陰謀などの災いや事件が相次ぎ、後白河天皇に近い人々が続いて亡くなるなど、社会が不安定となる出来事が立て続けて起こります。そしてそれらの出来事が、崇徳上皇の怨霊によるものではないかという噂が貴族社会の間で広まって行きました。

崇徳上皇の死から20年後の1184年に、ようやく後白河天皇は怨霊を鎮めるために上皇にそれまでの「讃岐院」から「崇徳院」という院号を送りました。
しかし、怨霊が鎮まることはなく、結局は天皇と貴族中心の世の中は終わり、崇徳上皇の怨念どおり、低い地位であった武家中心の世の中へと時代は移って行くのです。

京の都に帰りたいという崇徳上皇の願いは、怨霊となって大天狗のなかの大天狗とされても、その後700年間も叶えられませんでした。それがようやく実現したのは明治時代。明治天皇によって、上皇が眠る讃岐の白峯稜の御影堂から神像をご神体として京都に移し、白峯宮が創建されました。
崇徳上皇は700年の年月を経て、京の都において大天狗からようやく神へと祀られるようになったのです。

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