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不世出の陰陽師・安倍晴明の登場~史実の記録からわかること

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平安時代の中頃、怨霊をはじめ鬼や物の怪が怖れられた時代、史上最高の陰陽師と言われる「安倍晴明(あべのせいめい)」がいよいよ登場します。

とは言っても、安倍晴明がどんな人物だったのか、何をしていたのかなどを具体的に知るその当時の記録や記述はあまりありません。わたしたちがイメージする神秘的な陰陽師の姿は、そのほとんどが後の時代に書かれた伝承や物語によるものなのです。

しかしわずかな記録に残された史実だけが、安倍晴明のすべてであるとは決して言い切れません。後に伝説の人物となったのは、伝説となるべくしてなった存在であったからで、そこに安倍晴明の謎や秘密が隠されていると言えるかも知れないのです。

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記録に初めて登場する安倍晴明

安倍晴明が初めて記録に登場するのは、『本朝世紀』という平安時代末期に鳥羽上皇の命で編纂された歴史書です。その天徳4年(960年)の記事に、安倍晴明が先の内裏焼失によって失われていた「節刀」について、朝廷に勘申(かんじん)したというものがあります。

節刀というのは出征する将軍などに天皇が下賜する刀剣で、それがこの年の9月に平安京遷都以来初めての内裏の火災で焼けてしまいました。そこで、あらためて製作するために故事を調べてその形状や文様を勘申、つまり報告しというものです。このとき晴明はまだ「天文徳業生」で、天文博士を目指す立場でした。今日で言えば大学院の院生にあたる「修習生」の上で、博士の助手といったところかと思われます。しかし、年齢は既に40歳近くになっていたという説もあります。

それは、後に作られた安倍家の系図などで伝えられる没年から逆算した延喜21年(921年)生まれという推定からですが、じつは安倍晴明がいつ生まれたのかは不明で、この説も確かなものではありません。仮にそうだとすると、「陰陽寮」の天文徳業生という立場からは決して若くはありません。とは言え、天文徳業生ながら天皇と朝廷に勘申する充分な力量を具えていたのだということです。

 

安倍晴明の師、大陰陽師・賀茂忠行

この頃の陰陽寮の長官である陰陽頭は「賀茂保憲」でした。延喜17年(917年)の生まれですから、安倍晴明よりは少し年上になります。この賀茂保憲の父が「賀茂忠行」という人で、暦の編纂に携わる家柄の賀茂家にあってその大家であるばかりでなく、天文道と陰陽道にも優れ、そのすべてを掌握する「並ぶ者なし」と言われた大陰陽師でした。

例えば、関東地方で「平将門」が挙兵し、瀬戸内海では「藤原純友」が叛乱を起こした「承平天慶の乱」(935年から941年)では、北斗七星の化身とされる白衣観音を修して兵乱を鎮めるように朝廷に上申し、名声を博します。また「射覆(せきふ)」という、覆い隠されたものの中身を当てる透視術が得意で、天皇から絶大な信頼を得ました。

賀茂忠行は、飛鳥時代から奈良時代を通じて言ってみれば秘密機関であり、外部からの優秀な人材を登用することなく世襲が続いて閉鎖的で人材も不足していた陰陽寮に参入し、「陰陽五行思想」や「道教」に加えて仏教の「密教」や古代からの「呪術信仰」などを取り入れ、日本独自の「陰陽道」への道筋をつくります。

そしてこの大陰陽師である賀茂忠行が英才教育を施し、自らの陰陽道を継承する弟子としたのが息子の賀茂保憲であり、そして安倍晴明だったのです。

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