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亡き崇徳上皇に出会った西行の物語~讃岐のご廟所に現れた天狗たち

天狗
 
平安末期の歌人西行は、とても不思議な人です。
もとは佐藤義清(のりきよ)という白河法皇の御所を守る北面の武士(白河院直属の武士)で、弓馬や蹴鞠に優れ、なかでも和歌には類い稀な才能を持った人でした。同じ北面の武士であった平清盛とは友人であったという説があり、鳥羽天皇の中宮でありながら白河法皇との間で崇徳上皇を生んだという噂のあった、待賢門院璋子と関係があったという説もあります。武士を辞めて出家し歌人西行となった後、当時の歌壇の中心であった崇徳上皇とは親しい関係にあったとされています。

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西行には不思議な伝説が多く、高野山で鬼の真似をして人造人間を造ったという奇妙なお話も遺っています。
その西行が、後世に怨霊の中の怨霊、大天狗の中の大天狗とされた崇徳上皇が眠る讃岐のご廟所で天狗と出会う話があります。

 

崇徳上皇のご廟所を訪ねる西行

このお話は室町時代に多く作られた、「天狗物」と呼ばれる天狗をテーマにした謡曲(田楽や猿楽、能の脚本)のひとつである「松山天狗」で描かれています。

崇徳上皇が讃岐に流され、いつか京の都に帰りたいという強い思いのなかで裏切られ、深い怨みを持って亡くなられます。
西行は、和歌を通じて親しかった崇徳上皇の霊を慰めるため、讃岐のご廟所を訪ねて行きました。するとひとりの老翁が現れ、西行をご廟所まで案内してくれます。この老翁は実は崇徳上皇の霊が姿を変えたものでした。やがて辿り着いた崇徳上皇のご廟所は訪ねる者もなく、亡くなられてわずか数年なのに荒れ果てていました。
西行は涙を流しながら、歌を捧げます。

「よしや君 むかしの玉の床とても かからん後は何にかはせん」

現世でいくら栄華を極めても、それを死んだ後に持って行くことはできません。ましてや現世で受けた仕打ちや怨みをいつまでも持ち続けていても、浮かばれるものではなく儚いもので捨ててしまうのが良いのです。そんな西行の気持ちと願いがこの歌には込められていました。

 

西行の前に姿を現す崇徳上皇

「崇徳院がご存命中は、都のことを思い出されては恨むことが多かったと聞いています。いまは白峯の相模坊という天狗が仕えているほかは、このご廟所を訪ねる者もいません」と西行が案内してくれた老翁に言うと、老翁は姿を消し崇徳上皇が現れたのでした。

崇徳上皇は西行との再会を喜び、舞楽を舞うなど楽しいひとときを過ごしますが、やがて怨みを抱いた昔を思い出し、恐ろしい怨霊の姿へと変わっていきます。
そのとき山風が吹き、雷鳴が轟き、あちらこちらから天狗が舞い降りて来ました。

 

崇徳上皇を護る天狗が現れる

それは崇徳上皇に仕え護る天狗たちでした。その天狗の親玉が西行にこう言います。
「われは白峯に住む相模坊という天狗である。崇徳上皇がこの讃岐の松山に亡くなられたと聞き、小天狗たちを引き連れて仕えるためにやって来た。院を罪に陥れた逆臣どもをことごとく蹴殺し、仇敵を討って平らげ、院のお心をひたすらお慰め申し上げるのだ」と。

崇徳上皇はこの天狗の言葉を喜ばれ、機嫌も直ってその姿は消えて行きました。天狗たちも白峯の山へと飛び去って行くのでした。

このお話に登場する相模坊という天狗は、もとは相模国(神奈川県)の大山に住んでいたのですが、崇徳上皇に仕えるためにこの讃岐国(香川県)の白峯にやってきた大天狗だと言われ、大天狗の中の大天狗である崇徳上皇に仕えたことにより、日本の八大天狗のひとりに数えられることになりました。

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