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様々な姿をしながら広まっていった瑞獣・麒麟

麒麟

みなさんは東京のど真ん中、日本橋に「麒麟(きりん)」がいるのをご存知でしょうか。

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日本橋に現存する向かい合った麒麟

それもまさに日本橋の橋の中央、現在は首都高速の高架の下になってしまいましたが、高欄の中央部の照明灯を挟んで二体の青銅製の麒麟像がお互いに背を向け建っています。

この麒麟像は、1911年(明治44年)の日本橋の架け替えの際に建てられたもので、石造りの西洋式デザインの橋の装飾として東洋的モチーフが採用されたものです。そしてこの麒麟像の最も大きな特徴は、肩口に大きな翼を生やしているということ。またその姿は、全体的に龍にも似ています。

東京都公文書館のホームページの解説では、なぜ翼があるのかについて「デザイン上の点と日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、それまでの麒麟の作品には見られない羽を付けることを決めました(後略)」と書かれています。
しかし、別の記事でご紹介したように、古代中国の麒麟(馬型の騏驎)には肩口から翼が生えた姿のものがあり、決して特殊な姿ではないのです。

獅子の顔を持つ麒麟

一方で例えば、風水の開運グッズとして販売されている麒麟の置物を見たことがある人ならなんとなくわかるかと思いますが、それらは一般的に麒麟の姿のベースである鹿というよりは、どちらかというと獅子(ライオン)のような顔をしています。

また胴体は馬のようでもあり、蹄は伝説通り本来の鹿の割れた偶蹄ではなく、馬のように丸い奇蹄になっています。つまり、鹿型の麒麟、馬型の騏驎に続いて獅子型の麒麟になっているということです。

この獅子型の麒麟は、中国の南北朝時代(439年から589年)には皇帝の陵墓の像として採用されていたそうですが、獅子の顔とタテガミを持った麒麟は北宋の時代(960年から1127年)に見られるようになり、明の時代(1368年から1644年)には一般的になったとのことです。

西域の霊獣と融合した麒麟

日本ではあまり知られていませんが、中国の霊獣に「桃抜(とうばつ)」、また「辟邪(へきじゃ)」「天禄(てんろく)」というものがいます。辟邪や天禄は日本の神社の狛犬の原型につながるのではないかという説もありますが、これらは西域の霊獣でともにツノを生やし鹿や牛に似ているとされます。

古代の中国から見た西方にある国々のことを記した「漢書西域伝」に注釈をつけた、三国時代(184年から280年)の人である孟康は「桃抜、一名を符抜という。鹿に似て、尾は長い。一本の角を持つものを天鹿といい、二本の角があるものを辟邪という」と記しているそうです。つまり1本ツノの天鹿=天禄、2本ツノの辟邪がいて、それらを総称して桃抜と言うのだということです。

陝西省咸陽市にある前漢の元帝(紀元前48年から紀元前33年在位)の陵墓の付近で出土した辟邪の玉像を見ると、顔は獅子のようで足には蹄ではなく指があり、そして肩に翼があります。桃抜自体は麒麟ではないのですが、西域から伝わって来たこの桃抜、天禄や辟邪が本来の麒麟と融合して獅子の顔をした麒麟となり、やがて広まって行ったのではないかとも考えられています。

麒麟は龍に次ぐ瑞獣として尊ばれた

明の時代には、公、侯、伯といった貴族や駙馬(ふば)という貴人の娘婿は、補服という上着の胸の部分に麒麟の刺繍をほどこすことが決められていました。この刺繍は補子といい、身分を表す大型の階級章といったもので、清の時代には最も官位が高い一品官の補服に麒麟の刺繍がほどこされました。皇帝のシンボルは黄龍で、その親族も龍をシンボルとしますから、麒麟は龍に次ぐ地位の象徴だったのです。

この清の時代に、あるとき各地で牛が麒麟を生んだという記述が「清史稿」という歴史書にあるそうです。それが事実かどうかはわかりませんが、時代が下るにつれて中国の民間社会では、幸福を告げもたらす瑞獣としての麒麟に対する信仰が広まっていたということなのでしょう。

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