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河童が遺したもの(2)法力に敗れた河童の手

カッパ

 

河童の遺物として良く知られるものに、河童の手があります。河童のミイラと呼ばれるものが各地に伝わっているのですが、そのほとんどは手のミイラなのです。それはどういうもので、なぜ河童の手のミイラとされるものが遺されているのでしょうか。

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カッパの手が残っている理由

よくある伝承として伝えられているのは、河童が悪さをしようとして手を伸ばしたところを人間が切り落としたために、手だけが遺ったというものです。河童の手と腕というのは、実は左右が身体の中で一本につながっているとされていて、それで手を伸ばすと思わぬ長さに伸びるのだとか。ですが片方の腕を引っ張ると、そのまま抜け落ちてしまうとも言われています。これは、中国の「通臂猿猴(つうひえんこう)」という猿の妖怪からきているのではないかというお話は、別の記事でご紹介しました。

 

 

手のミイラが伝わる雲仙の河童伝承

遺された手のミイラのだいたいが、手を伸ばして切り落とされたものなのですが、長崎県雲仙市の「温泉山(うんぜんさん)一乗院」というお寺に遺されている河童の手のミイラとその伝承は、他とはひと味違ったお話ですのでご紹介することにしましょう。

 
温泉山というのは、奈良時代に全国各地に仏教を広め東大寺の大仏建立にも関わった「行基」が701年の「温泉山満明寺」を開いたのが始まりで、江戸時代初期の島原の乱で700坊もの僧坊があった寺がことごとく焼かれた後、復興されて「温泉山満明寺一乗院」となったものです。

 
この一乗院に赤峰法印というとても偉い僧侶が住んでいたのですが、その頃、山の中腹にある諏訪の池には悪い河童の大将がいました。この河童、手下を集めて温泉町に現れては女子供にいたずらをし、山の麓の浜にまで行って漁師の網を破るなど、悪いことばかりをしていたそうです。

 

 

神通力勝負は互角でも、結局敗れて手を遺した河童

そこで一乗院の赤峰法印は、悪い河童を懲らしめよう河童の大将に戦いを挑みます。
その戦いは、河童の大将が持つ神通力と赤峰法印の仏力との力競べでした。2つの力がぶつかり三日三晩戦ったのですが、どうしても勝負がつきません。そこで考えた法印は、わざと負けたふりをして山の方へと逃げました。河童の大将は自分が勝ったのだと思って、法印をどんどん追いかけ、温泉の噴煙があがる地獄道へと登って行きました。

 
そのとき、あたりに沸き上がる噴煙と熱気で、河童の大将の頭のお皿の水が蒸発してしまったのです。それによって神通力は失われ、そのまま倒れて河童の大将は退治されてしまいました。赤峰法印はこのときに河童の大将の手だけをもぎ取って、寺に遺したのだそうです。

 
このもぎとられた河童の手のミイラは今でも一乗院に遺されていますが、それにしてもいつものことながら河童は、どこか間が抜けていて人間に負けてしまうのですね。

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