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古代中国の人の移動。地理的特徴と文明の発展にはどんな関係が?

中国古代文明

 

中国は西アジアから東方へ移動する民族の最終到達地です。自然災害や人間同士の抗争が西方で起きると人が東方に移動し軋轢が生じます。
支配者はインフラ整備のために重い労役や徴税をし、事が起きれば兵役を課します。
これらの負担に耐えた人たちの子孫が今の中国人なのでしょう。

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1. 中国の歴史は位置にも関係している

中国の歴史は四千年とも五千年とも言われます。
高校時代の授業の思い出は沢山ありますが、白髪で老骨な風貌の先生の漢文の授業はその1つです。禹・尭・舜などの偉業や論語の説明などは忘れることはできません。
また、現職の僧侶だった先生の力強く流暢な説明の東洋史の授業もそうです。この授業を受けてからは北方騎馬民族が興味の対象であり続けました。

 
中国はその地理的位置から西アジアからの民族の移動先でした。この移動は中国が侵入を拒否できるようになるまで続きます。
国力は相対的なものですから、以前は侵入を拒否したが後に拒否できなくなることもあり得ます。
本稿では中国地域への人の移動について氷河期の頃から考察してみます。

 

 

2. 中国の地理的特徴

人類がアフリカ南東部に誕生し、アフリカを出て中近東の地に至り、そこから世界各地に拡散したとする説を前提にします。
中国の地理的位置を考えれば、トルコ、イラン、インドなどより遅れて人類は中国の地に足を踏み入れたと考えるのは自然です。
移動と定住を繰り返しながらの拡散ですから、地域や経路によって移動の速度も様々です。
ときには途中から引き返すこともあったでしょう。
中近東地域からの距離だけで早いとか遅いとかと断じることはできません。
一般的には海岸線を辿る移動は早かったようです。

 

 

2.1 居住圏の境界

中国圏への移動は、西方からオアシスと砂漠の周辺を経由する経路、北方草原地帯を通過して南下する経路、東南アジアを経由して江南地方へ至る経路などがありました。

 

(1) 東方境界

東方の境界は海で、現在の名前で言えば北から順に、黄海、東シナ海、南シナ海の海に面します。
東北部では日本海にも面しています。
戦争であれ友好であれ、東方との往来は船によらざるを得ません。

 

(2) 西方境界

西方部には草原や砂漠などの乾燥した地域が広がります。古代ローマやオリエント地方、あるいはペルシャやインドとの交流はこの西方地域を介します。
シルクロードは代表的な通商の道ですが、西方から中国への往還は自然環境の厳しさから容易ではありません。
大規模な軍隊の移動も困難です。
アレキサンダー大王が中国への侵攻を諦めたのも理解できます。

 

(3) 南方境界

南部にはマラヤ山脈が人を拒んでいます。その北方のチベット高原が中国との接線です。
南方部でも東方面ではベトナムやビルマなどの東南アジア諸国と接します。人々の往来はこれらの地を経由します。
狭いため国の存在を危うくするような大戦力は南方からは無理でしょう。
他の方部の勢力と呼応する場合は南の勢力も無視できません。

 

(4) 北方境界

北部は乾燥した草原と山脈が続きます。
モンゴルは代表的な境界です。
万里の長城の存在から分かるように、北方の遊牧民族・騎馬民族との抗争は常に考えねばならないことです。

 

 

2.2 中国地域の特徴

(1) ヒマラヤ山脈を源にする二つの大河、北方の黄河と南部の揚子江(長江)とがあります。
両大河の流域は土地が肥えていて農業が可能です。北部の黄河流域では畑作が、南部の長江流域は稲作が中心です。
黄河も長江も漁労が可能です。

 
(2) 南北の人種は大きく異なることから日常のことばも食の習慣も異なります。気風においても北の騎馬民族的な気風に対し南は策略や権謀術策のない平等な気風です。
南には文字も生まれませんでした。能力の問題ではなく必要なかったのです。

 

 

3. スンダ大陸からの移動

今から二万年以上前の東南アジアでは氷河の成長で海水面が低下し、現在のインドネシアの島々の多くは陸橋でつながりスンダ大陸といわれます。
この大陸や東南アジアの地から北方へ移動する人の群があらわれます。

 

3.1 寒冷地適応をしない人々

中国の内陸でも沿岸地帯を北上した人々です。その途上で台湾や沖縄に渡った人々もいましたが、多くは北上を続けてアムール川周辺の沿海州に落ち着きます。
これらの人々は寒冷地適応をすることなく氷河期を過ごします。
スンダ型歯列と言われる小さく柔構造の歯を持つのが特徴です。

 

3.2 寒冷地適応をした人々

最終氷期の比較的温暖な時期に大陸内部を北上した集団がシベリアの地に達します。
2万年前頃に気候がさらに厳しくなり、この集団は新モンゴロイドの特徴を帯びるようになります。
やや硬い黒髪,黄色い皮膚,胴長で短い体型,幅広で張り出したほほ骨の顔、低い鼻、腫れぼったく一重のまぶた、細い眼,薄い体毛などが特徴です。
また新モンゴロイドは中国型歯列といわれる頑丈な歯をもちます。

 

 

4. ドラヴィダ族系の人々

インダス文明を育んだ人々の一部はインド亜大陸を横切り、揚子江の中流や下流域に移ってきます。
農業技術をもつこの人々の群れは長江流域で稲作と漁労の生活を営みます。
後のことですが、平和思考のこの民族は気候の悪化によって南下した北方畑作民族に駆逐されてしまいます。

 

 

5.望月清文氏の初期の日本人-1の移動

氏によれば、ある言葉から想起する五感(視覚、聴覚、嗅覚、触角、味覚、気分)の関係には民族による微妙な違いがあるようです。
氏はこれに着目して世界の民族の異同を調べました。
日本人は三つの型に分かれるそうです。
日本人-1型はアジアでは日本人だけがもち、五感との関係が最も豊かな人々です。
類似の型をもつ民族はポルトガル人とスウェーデン人の一部だけです。
この型の人々は寒冷化の早期にアフリカを出て、温暖で植生の豊富なレパント地方で豊かな感性を身につけ、やがて東西に分かれて移動したようです。

 
ヨーロッパでは、氷河の後退と共に北進するトナカイを追ってスウェーデンに達し、残った人々は侵入する他民族の圧迫でポルトガルに押し込められたのです。
東アジアに向かったグループの移動経路は北方草原地帯だと思われますが、他民族の圧迫で当時は大陸東端と陸続きの北海道・本州・九州に移ったようです。
3万年前頃のことのようです。
将来は中国の辺境で同じ型の人々が見つかるかもしれません。

 

 

6. 有史以後の民族移動

有史以後の人の移動には旱魃や冷害などの自然現象のほか、社会的な理由による移動が加わります。
戦争の敗者の逃亡、戦争の巻き添えを避けて避難する集団、人口増加のため新天地を目指す集団などが代表的な例です。

 

 

6.1 中国圏外からの移動

中近東の人々には中国の地は最果ての地のように見えます。
これ迄の地に住めない事情をもつ集団、新天地を求める冒険者的集団などが危険を承知のうえでて移動するのです。

 

(1) 遊牧民族同士の抗争

遊牧民族同士の争いに破れた民族が東方へ逃亡する場合です。

 

(2) イスラエルの民の移動

アッシリアがイスラエル10部族の国を滅ぼした際にその国民を拉致して東方へ追放したとされます。

 

(3) 武装勢力の侵入

武装した集団が中国域内に領地を与えられて住みつく場合です。
例えば、中国への侵攻を断念したアレキサンダー大王は部隊の一部を東方に派遣したようです。

 

(4) 小集団の移動

後代になると、原始キリスト教(景教)の伝道や通商などで人々の往来が生じます。

 

 

6.2 中国圏内の移動

気候の寒冷化・乾燥化のため、北の畑作牧畜系農民が南部に来襲します。
戦いに適した生活をしてない長江流域の米作農民には勝ち目はありません。
敗者は東や西のほか、南に逃げる結果になります。

 

 

6.3 海からの移動の可能性

海路からの侵入には船が必要です。造船や後悔の技術が必要です。
したがって現世人類の初期の段階では海を利用した多数の集団の侵入は考える必要はないでしょう。
海の生活に慣れてきた人々は筏(いかだ)などによる移動を体得したでしょう。

 
揚子江や黄河が海と接する地域に侵入が可能になるにはさらに後代になることでしょう。
拠点・拠点を辿った航路であれ、それに耐える構造船と航海術が必要になるからです。
その時期はシュメールが栄えた時代以後と思います。

 

 

6.4 中国古代史の定説

古代の中国では、夏、殷、西周、春秋戦国、秦、前漢、後漢と王朝が交代したといわれます。

 
(1) 秦の始皇帝は碧眼紅毛のペルシャ人だったようです。始皇帝の墓を守る兵馬俑の人種は何でしょうか。
秦帝国を支えた基層民はユダヤ人のようです。
紀元前13世紀頃、ユダヤ人が後年シルクロードと言われる地帯を通って中国西部地方やチベットで住みついて秦国を形成する基層民になったといわれます。
羌(チャン)族といいますが、その文字から遊牧民であることが分かります。

 
(2) 夏や殷という古代国家が成立していたかは不明です。人の集団はあったでしょうが、国家と呼べるかどうかです。
西方からの人の移動を考慮すると、西方の歴史の借用もあり得るからです。
この事情はわが国の神代記も同様です。

 

 

7. 集団移動の社会学

集団の移動という現象を根本から考えて見ます。

 

7.1 人の侵入と移動

(1) 人が不在の中国に移動する場合は遮る人はいません。他の集団がいないので摩擦がないからです。
自分達の生命維持と生活向上のために努力するだけです。

 
(2) 新たにその地に入る集団は既存の集団の有無を考えて対処を決めねばなりません。
もし先住者がいるなら、通過して近くの別の場所を見つけるか、摩擦覚悟で強引に入り込むか、暫時観察してから決めるか、受け入れてくれるように交渉するか、武力で奪うかです。多くの場合は争いを避けて他の場所に移ったと思います。

 

7.2 集団の分裂

指導者に集団をまとめる力を欠くと集団は分裂します。
指導者の弟や伯父、有力な部下などが集団を分裂させます。

 

7.3 集団の並存と統一

集団の移動や分裂が続くと複数の集団がある地域に並存するようになります。
人には、人を支配したいという欲、より大きくなろうとする欲、相手を許せないと言う我欲などがあります。

 
(1) 複数の集団が互いの存在を認識しあう段階になると両者の関係が複雑になります。協調、征服と支配、抹殺、統合、並存などの様態が考えられます。

 
(2) 各集団は新たな活動が必要に迫られます。防御の準備、対話への努力、相手の観察と理解、万一の場合の準備などです。

 
(3) 複数の集団の中で力を蓄え、時の利、地の利をもち、指導者に恵まれた集団が複数の集団を統一します。他の集団の指導者は抹殺されるか追放されるでしょう。
中国では王朝が変わるたびに人口が激減したと言う説があります。
もしそうなら、指導者だけでなく兵卒に至るまで殺戮したのでしょうか。

 

7.4 歴代の中国王朝寸描

(1) 中国は他民族が西や北から侵入しやすい領域です。従って、集団同士の争乱は頻繁に発生します。
多くの場合に支配者が交代するだけで、民衆はそのままの場合が多いのではないでしょうか。
もちろん、戦乱を避けて場所を変える人たちもいました。激しい戦乱に耐えられないからです。

 
(3) 統一王朝においても、秦、元、清などは異民族の建国ですし、隋や唐の建国者も純粋な漢民族ではないようです。
僅かに周、漢、宋、明だけが漢人の建てた王朝です。私たち日本人はこのような異民族の支配を経験していません。

 
(4) 中国人は様々な人種の混血です。主となる人種は寒冷地対応をした民族ですが、ツングース系民族、チベット系民族、蒙古系民族、トルコ系民族などが融合した人種です。

 

 

日本にも似ている地域が

本稿では、古代の中国地域にどのように人々が移動したかを紹介することを試みました。
殺伐とした北方に比べ、稲作のする揚子江中下流域の地は日本の原風景にも重なります。
わが国の稲の栽培もさらに昔に遡るかもしれません。

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カテゴリ: その他

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