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政治家 藤原不比等の謎:天智系の皇統の継承を支え続けた藤原不比等の謎めいた半生の紹介

藤原不比等

 

1.はじめに

天武朝末期に政界に登場し、白村江の大敗の影響が続く7世紀末から8世紀初期にかけ、律令政治の基礎固めをすると共に、持統天皇による天智系の皇統の継承を支え続けた藤原不比等の謎めいた半生の紹介です。
なお本稿では、天皇名などは初出の個所以外は「名前」の形式の簡略表記をします。

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2.父鎌足

中臣鎌足(鎌子)は中大兄皇子と組み蘇我本宗家を滅ぼしたことはよく知られています。乙巳の変と言われるこの変の首謀者は鎌足だとされますが、このような大事を一官人が着想できるでしょうか。この変の後の鎌足の事績や思想も霧の中ですが、出自にも幾つかの説があるようです。

 

 

3.不比等の出生

不比等は鎌足の次男とされますが、「中大兄」の落胤との説もあります。兄の定恵(俗名真人)は11才で遣唐使の留学僧として唐に渡りますが、帰国した年に死亡します。23才の若さでした。
父の鎌足は不比等が10才の時に亡くなります(669年)。
大海人皇子が吉野で近江朝廷打倒の兵をあげた(壬申の乱)年は15才でしたが、幼少時を過ごした山科の田辺史大隅(たなべのふひとおおすみ)の家で乱を避けたようです。
なお、壬申の乱で中臣氏は近江朝廷側についたため、乱後しばらくは逼塞していたようです。

 

 

4.不比等の事績

この時期は唐の領土的野心によって韓半島は戦乱の渦中にありました。まず百済が唐・新羅連合軍の攻撃で滅び(660年)、その復興のため倭国が派遣した救援軍も拠点に近い白村江で唐の水軍に大敗します(663年)。
続いて高句麗も唐・新羅連合軍に破れます(668年)。
これ以降は新羅が唐に対抗する姿勢に転じ、ついに韓半島から唐勢力を駆逐し半島を統一します。

 
この間、わが国の属国化を目論む唐、唐勢力の半島からの排除を図る新羅、亡国の復活を図る百済や高句麗などの勢力がわが国で謀略工作を展開します。不比等はこの時期に女性天皇や若い天皇を助け、国の独立を図りました。
なお、書紀に不比等の名が載るのは「天武」が崩御した3年後(持統称制3年, 689年)で、竹田王らと判事(従五位下に相当)に任じられます。31才のことです。

 

天皇補佐

3代の女性天皇と1人の若い天皇を補佐します。この間、子から母への皇位継承と、母から皇女への継承という前例のない継承を実現させます。

 
(1) 持統天皇は「天智」の娘です。同母姉の太田皇女と共に「天武」〉の妃となり草壁皇子を生みます。「天武」の死の同月に謀反の罪で大津皇子が死罪となりますが、「持統」は皇后のまま政治を担います(称制という)。息子草壁皇子を即位させるためです。ところが「草壁」は息子(軽皇子)を残し28才で死亡し、「持統」が即位します。孫の「軽」に皇位を渡すためです。他に天武の皇子が何人もいるにもかかわらずです。

 
(2) 「軽」が15才になると「持統」は「軽」を即位(文武天皇)させ、自らは大上天皇(上皇)として影響力を保ちます。ところが、「文武」は不比等の娘(宮子)との間に首皇子と氷高皇女を残して死亡します。「首」はまだ5才のため「文武」の母(安部皇女)が即位(元明天皇)します。

 
(3) 「元明」は不比等の力を得て勤めを果たします。その退位後、娘の「氷高」が即位(元正天皇)し、「首」の成長を待ちます。ようやく「首」が成長して即位(聖武天皇)します。夫人の光明子は不比等と県犬養三千代の間に生まれた娘です。

 

律令の整備

唐の干渉を排除し新羅に侮られぬため律令の整備を急ぎました。

 
(1) 大宝律令
刑部親王を総裁とし、不比等らの貴族と粟田真人らの遣唐使や留学生、渡来系氏族の子孫などの委員が撰定したもので、唐の律令をわが国に合うよう編集したものです。律6巻、令11巻からなり701年に完成しました。土地制度、兵制、租税制度、官僚制度、地方自治などからなります。

 
(2) 養老律令
大宝律令をわが国の実情にあうように更に修正したものです。

 

遷都

(1) 藤原京への遷都
飛鳥から藤原京へ遷都します。官人が増えたため飛鳥では住居も役所も手狭になったことが理由とされます。691年末に地鎮祭を行い、694年末に完成したようです。東西約2km、南北約3kmの広さです。

 
(2) 平城京遷都
「元明」朝の708年12月に地鎮祭を行って建築をはじめ、710年3月に未完成の平城京に都を移しました。都としての完成は数年後のようです。「元明」は遷都には反対だったようですが、官人の強い要求に押し切られたようです。東西約4.2m、南北約4.7kmで藤原京の3倍の広さです。

 

日本書紀の編纂

国の成り立ちの記録を整備することは唐に侮りを受けぬための重要な文物です。万世一系の皇統が続いているように見せるなど、不比等の意思が随所に込められていると言われます。

 

 

5.人物像

(1) 父鎌足に劣らず、不比等も人の仲を取りもつことに努めました。生来か努力かは別として人を惹きつける魅力を備え、仲間にも恵まれたようです。

 
(2) ひ弱な「草壁」をもつ「持統」の信任を得たことが後の活躍の発端となりました。後に妻となる県犬飼三千代との絶妙なコンビで女性天皇たちへの補佐を成し遂げました。これが不比等の力を高めることになりました。

 
(3) 唐や新羅の干渉を抑え、万世一系の天皇を頭に戴く日本国の基礎作りに生涯をかけた偉大な政治家と理解します。立場をわきまえ歴史の表に出ることを避けた点でも評価したい。

 

 

6.おわりに

7世紀の倭国が直面した国難に敢然と立ち向かい、新生日本の礎を造った藤原不比等の謎を紹介しました。

 

 
追記
720年8月に世を去り10月に正一位太政大臣の位を追贈されました。

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カテゴリ: その他

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