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謎多き天智天皇と天武天皇:濃い霧に覆われている「天智」・「天武」時代の史実

薬師寺

 

1.はじめに

唐が起こした韓半島の戦乱に巻き込まれた天智・天武両天皇の謎を紹介します。7世紀前半、北方騎馬民族の脅威からようやく脱し、隋が国内の統一を成し遂げます。しかし度重なる外征の失敗で滅びると、唐がそのあとをついで国内を整備します。次は外への拡張です。高句麗の平定と新羅・百済の属国化です。

 
半島の覇権の獲得を目論む韓3国はこれに反応します。この時期、百済との関係が特に深かった倭国は動乱に巻き込まれます。唐の干渉に加え、韓3国の工作の舞台になります。

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ついに百済が唐・新羅連合軍に破れます。抵抗を続ける百済遺臣の応援に派遣した倭国の軍は白村江の海戦で大敗します。唐軍の侵攻へ備えつつ、唐の露骨な干渉や高句麗・新羅の工作に「天智」も「天武」も対応します。「天智」は唐に、「天武」は唐と敵対する新羅につく姿勢をとります。

 

 

2.天智と天武の出自

即位前の名は、「天智」は葛城(中大兄皇子)、「天武」は大海人です。同母(宝皇女、後の皇極天皇・斉明天皇)の兄弟で「葛城」が兄、「大海人」が弟とされますが、史家によっては弟が年長といいます。
小石房子は著書:「巫女王 斉明」で兄弟の出生について自説を明かします。本稿ではこれを標準的な見解とし、私の理解に基づいて説明します。

 
「宝」の母(吉備姫王)は百済の武王に嫁ぎ、「宝」と弟の軽皇子(後の孝徳天皇)を生みます。「宝」は武王の指示で高向玄理(第1回遣唐使の留学生)と結婚し、長安で息子の漢(あや)皇子を生みます。ところが武王は唐の百済攻撃を予想し、「宝」に母と弟と共に倭国に渡ることを命じます。倭国による百済救援を実現するためです。

 
渡来後、蘇我馬子のすすめで母は茅渟王(押坂彦人皇子の子)と、「宝」は田村皇子と再婚します。ところが崇峻天皇が馬子に殺害され、事態は思わぬ展開をします。夫の「田村」が即位(舒明天皇)し、「宝」も后妃になります。その「舒明」との子が「中大兄」と間人皇女です。なお、「大海人」は「玄理」との子の「漢」です。書紀は、「舒明」12年10月の段に新羅を経由した玄理の帰国を記していますが、「漢」を同伴したと思います。

 

 

3.天智と天武の事績

主要な事績のみ列挙します。

 

3.1 天智天皇

(1) 鎌足らと謀り入鹿を殺害します。父蝦夷の自殺で蘇我本宗家は滅びます。

 
(2) 「孝徳」朝では皇太子でしたが、「孝徳」は親唐的政策をとり、「中大兄」は親百済的政策をとって対立し、「孝徳」は捨てられます。

 
(3) 「斉明」朝でも皇太子として百済への援軍を派遣します。

 
(4) 白村江の戦で敗北すると、亡命百済官人の大量の受け入れ、九州と瀬戸内地域の砦の構築、反対の多い大津遷都などを敢行しました。

 
(5) 斉明の没後7年が過ぎた668年に即位し、3年後の671年に死亡します。

 

3.2 天武天皇

(1) 「天智」は4人の娘を「大海人」の妃にします。警戒すべき人物と思われたのでしょう。藤原鎌足も2人の娘を嫁がせています。

 
(2) 天智の子の大友皇子が仕切る近江朝廷との戦(壬申の乱)に勝って即位します。

 
(3) 天皇親政を目指し、八色の姓を定めると共に皇族を抜擢します。

 
(4) 外交面では新羅との関係を重んじ反唐的な政策をすすめます。唐からは好ましからぬ大王とみなされたことでしょう。

 

 

4.異論・異説

(1) 当時、百済王室と大王家の関係は特に密だったようです。百済の武王が「舒明」でもあるという説もあります。書紀の「舒明」13年10月の段には「舒明」が百済宮で崩御したことが記され、武王もこの時期に死亡しています。

 
(2) 「葛城」あるいは「天智」は狩のさい中に殺され、死体は発見されず片方の履だけ見つかったと言われます。その後の「中大兄」または「天智」は百済の余豊章だとする説もあります。

 
(3) 「天武」は高句麗の淵蓋蘇文(よんげそむん)(高麗王をクーデターで倒し自らは首相となった)だという説のほか、新羅の金多遂(きんたすい)という説もあります。金春秋(後の武烈王)に代わり渡来したが帰国の記録がない人物です。

 
(4) 「天武」は唐の陰謀で息子の大津皇子が殺害されたという説もあります。

 
(5) 李寧熙は著書「天武と持統」で、日本の学者が解釈に窮する万葉集の歌も、古朝鮮語によれば容易に把握できると主張します。

 

 

5.おわりに

本稿では、「天智」・「天武」時代の史実が濃い霧に覆われていることを紹介しました。わが国が科学技術や経済・文化で世界に貢献するには、「天智」・「天武」時代の真実を明らかにすることが先決です。この時期のわが国に、どのような危機が何からもたらされ、誰がどのように防いだかを明らかにしなければなりません。国民は勇気づけられ、世界を胸を張って歩けるようになります。周辺諸国、皇室、国の面子、学会の学説などへのおもんばかりを捨て、多くの切り口から史実を追求すべきです。

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カテゴリ: その他

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