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独裁官カエサル、ローマへの帰還とクレオパトラ

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ローマ最大の実力者ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の愛人となり、エジプトの統治者として実権を握り、さらにカエサルとの間に子をもうけたエジプト最後の女王クレオパトラ7世。

彼女が自分の息子に、王家の名前であるプトレマイオスの名を付けずに、ローマ人のカエサルの名をもらってカエサリオンと名付けたのはなぜだったのでしょう。そこには将来、自分の息子がカエサルの相続人となる可能性を見越していた、という説もあります。

つまりエジプトの女王である以上に、ローマ最大の実力者カエサルの息子の母であるという地位が重要だったのであり、当時の地中海世界において共和政ローマの力は絶大であったのです。

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カエサルがローマに帰還し、クレオパトラもローマへ

紀元前47年、カエサルは黒海沿岸のポントス王国とポルポロス王国の王ファルケナス2世がローマに反して兵をあげると、それを粉砕するために向かい、ゼラの戦いで勝利しました。「来た、見た、勝った」というカエサルの有名な言葉は、このときのローマ元老院への報告のものです。

そのあとローマを経由してアフリカ北岸を転戦し、紀元前46年の夏にカエサルはローマに帰還します。カエサルは10年間の独裁官に任じられ、信頼する部下のマルクス・アントニウスを補佐官である騎兵長官に任命しました。

ローマでは、カエサルの戦勝を讃える壮麗な凱旋式典が行われました。そしてこの凱旋式典が行われたあとの頃、アレクサンドリアから息子のカエサリオンを連れてクレオパトラがやって来ました。王宮にひとりで置いておくと不安があると、弟で夫のプトレマイオス14世も同行していましたが、この王はまだわずか12歳です。

 

新しいヴィーナスとなったクレオパトラ

クレオパトラは、およそ1年半もの長い間ローマに滞在します。提供されたテヴェレ川対岸のカエサル所有地を住まいとし、ローマでの生活を送りました。

この間のクレオパトラの動向については、じつはあまり知られていません。おそらく、極端に目立たぬように振る舞っていたのではないかと推測されています。それは、カエサルに対するクレオパトラの立場が関係していたようです。

カエサルには正妻のカルプルニアがいましたが、ふたりの間には子供はできませんでした。それもあったので、カエサルはカエサリオンを自分の息子として認知していましたが、共和政のローマでは他国の女王が愛人で、その女性との間の子供を認知するというのは、あまり好ましくなかったようです。

カエサルは竣工したウェヌス・ゲネトリクス神殿に、クレオパトラの黄金張りの彫像を置きました。この彫像は、神殿に祀られるウェヌス・ゲネトリクスの女神の像の側に置かれていたのです。ウェヌス・ゲネトリクスとはつまり「母なるヴィーナス」ということ。そして、カエサルの名にあるユリウス氏族の母神とみなされていました。

クレオパトラはエジプトですでに「新しいイシス(イシスはエジプトの女神)」「新しいアフロディーテ(ギリシャの美の女神)」と呼ばれていましたが、そのアフロディーテと同一視されるウェヌス、つまり「新しいヴィーナス」ともなったのです。

 

カエサル暗殺

カエサルはこのように、自分の祖先の神とクレオパトラとを結びつけ、自分と彼女の関係を正当化したと考えられています。

紀元前45年、共和政ローマの元老院はカエサルを終身独裁官としました。カエサルの独裁体制は着々と進んで行きます。しかし彼は王の称号を断りました。それがなぜだったのかは謎ですが、ローマにクレオパトラとカエサリオンが滞在し続けていることを考えると、やがてはクレオパトラ女王と正式に結婚し、カエサリオンを跡継ぎにして、自分の息子を地中海世界の巨大な王国の王とするという、壮大な野望があったのだとする説があります。たしかにカエサルには、その実力も権力もありました。

しかし事件は起こりました。紀元前44年3月15日、ポンペイウス劇場で開かれる元老院に出席するために向かったカエサルは、開会式の前にマルクス・ブルトゥス(ブルータス)やカッシウスによって暗殺されてしまいます。この事件が起こって少しあと、クレオパトラはカエサリオンを連れてアレクサンドリアに帰ったのでした。

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