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子供だけが演じる獅子舞。新潟県の「角兵衛獅子」

獅子舞

年配の方ならご存知だと思いますが、往年の大歌手・美空ひばりさんの代表曲のひとつに「越後獅子の唄」という楽曲があります。
「越後獅子」というのは、本来は江戸時代に上方や江戸で流行した地唄(三味線を伴奏とした唄)で、その後に歌舞伎の「遅櫻手爾葉七文字(おそざくら てにはなの ななもじ)」という舞踊の伴奏音楽である長唄になりました。

この「越後獅子」が題材としたのが、新潟県の旧西蒲原郡月潟村(現在の新潟市南区)を発祥地とする「角兵衛獅子」という郷土芸能で、子供が演じるのを最大の特徴とする獅子舞の大道芸です。

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角兵衛獅子の特徴とは

角兵衛獅子が各地で伝承されている風流踊系の「一人立」獅子舞と異なるのは、その獅子頭です。一人立の獅子舞とは、2人の演者が1頭の獅子となって演じるのに対して、ひとりの演者が獅子頭を頭からすっぽり被って獅子を演じるものです。しかし角兵衛獅子では、小さな獅子頭を頭の上に載せるかたちで獅子頭のついた赤い頭巾を被り、顔は露出させています。

また角兵衛獅子の舞いはアクロバット的な要素が強く、逆立ちをしたり背中を下にして手足を地面につけて動くカニの横ばいをしたり、あるいは2人ひと組でひとりが上に乗って様々なかたちをつくるなど、あきらかに散楽の流れを汲むような演技を行います。

 

 

角兵衛獅子の起源伝説

この角兵衛獅子が知られるようになったのは、1755年に江戸に来た頃からのようですが、越後の月潟村から諸国に出た理由としては、洪水に悩まされていた月潟村の堤を造る費用を稼ぐために、子供に獅子舞をさせる一座を組んで旅稼ぎをさせたということなのだそうです。

それでは角兵衛獅子という、他の獅子舞とは異なる舞いがどうしてできたのかというと、その由来には諸説あるようですが、こんな伝承が伝わっています。

むかし、常陸国(茨城県)水戸の住人であった角兵衛という人が越後の月潟村に移り住みました。その角兵衛があるとき何者かに殺害されてしまい、その犯人は足の指のない男としかわかりません。というのも、殺されるときに角兵衛がその男の足の指を噛み切っていたからでした。

残された角兵衛の息子の角内と角助の2人は、人びとのなかで逆立ちをすることを思いつきます。というのも、逆立ちをして人びとの足下を見て犯人を捜そうとしたからです。2人は「あんよ(足)を上にして、あんよの指のないものを気をつけて見れ」と謡い囃して、諸国を巡り歩いたといいます。

 

 

義経と関係があった!?角兵衛獅子

どうも創作めいた伝承ですが、子供の演者が逆立ちを演じる理由としてはユニークかも知れません。

また、角兵衛獅子は他の獅子舞と同様に魔を退ける悪魔祓いの舞いということですが、平安時代末期の1185年、源義経が京都から奥州へと落ちる際に角兵衛獅子の一行と出会ったという伝承があります。

上越米山(新潟県上越市)の薬師堂で義経主従が休んでいると、にわかに天候が急変し辺りは濃霧に包まれます。するとそこに角兵衛獅子の一行が現れ、義経の本当の身分を察して道案内をし、また魔を祓う獅子舞を行いました。それによって濃霧はたちまち晴れ、義経たちは無事に山を越えることができたということです。この功により義経は、角兵衛獅子に天下往来つまりどこを通行しても良いという一札を与えたのだそうです。

追われて逃げる源義経が天下往来を認めるというのも無理な話で、またほとんどの獅子舞が室町時代以降に始まったという通説からも時代が合いませんが、角兵衛獅子のような子供が演じる散楽の旅一座がじつは古くからあったのかも知れません。

時代は下って明治時代以降になると、大道芸としての角兵衛獅子は子供の虐待という観点から禁止されて衰退し、やがて消滅しました。現在は郷土芸能として戦後もかなり過ぎてから復活し、地元の中学生たちによって演じられています。

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