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吸血鬼ドラキュラの誕生(2)究極のヴァンパイア、生まれる

吸血鬼
アイルランド人の作家ブラム・ストーカーが書いた小説「吸血鬼ドラキュラ」(1897年)は19世紀の吸血鬼ブームを締めくくり、現在にまで続く吸血鬼のイメージを確立した究極のヴァンパイアを誕生させた小説であったと言えるかも知れません。

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吸血鬼ドラキュラの物語とは?

物語は皆さんも良くご存知だと思いますが、ごく簡単にご紹介するとこんなお話です。
弁理士のジョナサンは、英国ロンドンに別荘を購入したいという東欧の貴族、ドラキュラ伯爵との交渉のためにトランシルヴァニアに行きますが、そこでドラキュラが吸血鬼であることに気づきますが城に監禁されてしまいます。

ドラキュラはロンドンに現れ、ジョナサンの婚約者のミナやその親友のルーシーの血を吸い、彼の眷属であるアンデッド(不死者)を増やそうとします。そこでルーシーに求婚していた精神科医のセワードたちと城を脱出して帰国していたジョナサンは、精神病理学の権威ヘルシング教授の助けを借りてドラキュラと戦い、ついにはトランシルヴァニアのドラキュラ城で勝利してドラキュラを滅ぼしたのでした。

 

 

ドラキュラのモデルとは?

ドラキュラのモデルとなったのが、15世紀東欧のワラキア公国(現在のルーマニア)のヴラド3世であることは良く知られています。

ヴラド3世の別名が「ヴラド・ドラキュラ」で、ドラキュラとは龍や悪魔の意味がある「ドラクル」の息子ということです。彼は神聖ローマ帝国からドラゴン騎士団の騎士に叙任され、オスマン帝国との戦いで活躍した英雄でもありますが、オスマン帝国の使者を無礼があったということで生きたまま串刺しの刑にし、さらには大量のオスマン帝国兵を串刺しにしたことから「串刺し公」の異名も持つなど、残虐さが強調されたこともありました。

それではなぜブラム・ストーカーは、このヴラド・ドラキュラをモデルにして吸血鬼の小説を書いたのでしょうか?

 

 

ドラキュラは、長い年月語り継がれた吸血鬼伝承を集合して生まれた

それには、東洋言語学の学者でハンガリーのブタペスト大学で教鞭をとっていたアルミニウス・ヴァンベリー教授との出会いが大きく影響したと言われています。
アルミニウス・ヴァンベリーはマルコ・ポーロの足跡を辿ってアジアの各地を旅し、16ヵ国の言語や各地の魔術や怪物などの伝承に通じていたという人物です。

ブラム・ストーカーはこのアルミニウス・ヴァンベリー教授からトランシルヴァニアの吸血鬼伝説を聞き、吸血鬼小説を書くことを思いつきます。また教授から提供されたヨーロッパ各地の様々な吸血鬼にまつわる伝承、ロマ(ジプシー)に伝わる吸血鬼物語などの資料を提供されました。それらの素材やエッセンスが組立てられて、「吸血鬼ドラキュラ」はできたのでした。

つまりブラム・ストーカーが創りあげた吸血鬼ドラキュラとは、古代から中世、近世そして19世紀へとヨーロッパで語り継がれたヴァンパイアの集合体であったのかも知れません。

 

 

ヴァンパイアへの自由な想像を拡げたドラキュラ

しかし、ブラム・ストーカーのドラキュラは、決してヴァンパイアをひとつの固定した象に押し込めたものではありませんでした。ドラキュラの正体は断片的にしか見えず、それが異常な存在であるヴァンパイアに対して、読者が様々に自由な想像を働かせることのできるものとして描いたという評価もあります。

ですからドラキュラの誕生以降、多くの映画や最近ではライトノベルやアニメなどには、ときにはロマンチックな恋愛でもあり、また死と隣り合わせのエロスでもあり、あるいは死なないことへのあこがれと死ねないことへのあきらめなど、色々な要素がヴァンパイアの物語へと込められていきました。そういったドラキュラから始まった近代の吸血鬼像が、現在でも多くのファンを惹き付けているのかも知れません。

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