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全て倒れていたモアイ像…イースター島の謎に満ちた激動の歴史

04.モアイ
 
イースター島のモアイ像は、1722年にオランダのヤーコプ・ロッヘフェーンが、西洋人として初めてイースター島を訪れた際に発見され、その建造や運搬の方法、建造された理由などが不明確であることから、今でも謎のまま、さまざまな説が飛び交っています。1722年の記録を確認すると、現在のイースター島の姿とは、かなり違っていたことがわかります。なかでもモアイ像については、現在では海のほうに向いて立っていたり、島の内側を向いて立っていたりしている姿が一般的なのですが、当時は約半数が「倒されていた(この記録は1724年のイギリスのジェームス・クック=通称キャプテン・クックによるものです)」といいます。

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すべてのモアイ像が倒れている時代もあった?

1724年頃では半数程度が倒されていたモアイ像ですが、その後西洋人の手によって定期的に様子が伝えられるようになり、1830年ごろに「立っているモアイ像」が伝えられたことを最後に、1840年頃には「すべてのモアイ像が倒されていた」といいます。その後20世紀以降になって、学者や当地の人々によって、断片的に復元がおこなわれるようになり、いくつかのモアイ像が再び立ち上がった姿に戻り、現在に至っています。1990年代には、日本の企業がクレーンを使って復元した、という例もあります。

 

人口増加と食料不足が起こった?

建造時には立った状態で作られたモアイ像が、なぜ倒されるようになり、一時期はすべて倒れているような状態になってしまったのでしょうか。「絶対の真実」は残っていないものの、現在伝えられているもっとも有力な説は「部族間抗争影響説」です。5世紀頃から移民が住み始め、10世紀頃にはモアイ像建造がおこなわれていたそうなのですが、人間が住み始めた当初には数百人だった人口が、後年のピーク時には1万人以上になったといいます。そんな中で、モアイ像は大量に作られ続けていますが、その理由にも諸説あり、墓碑とも祭祀ともいわれています。火山活動の影響でできたイースター島には、もともと農作物を作る耕地が少なく、なおかつ痩せた土地であったため、人口増加に比例して、食料不足が深刻になっていったことが考えられます。

 

部族間抗争の影響でモアイ像が倒された?

モアイ像が墓碑だとすると、部族間で権力を誇示するために大きなモアイ像を競って乱立していったのではないか、といえそうです。対立しあう部族間で、権力の象徴である相手のモアイ像が攻撃のターゲットになることは、想像に難しくありません。このような経緯で、モアイ像がすべて倒されていた作り出されてしまった、とのことです。

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カテゴリ: その他

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