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日本書紀で知る七世紀日本の政治的混乱。未だ残る謎も多い?

日本史

 

二つの隣国から歴史認識について注文をつけられ続けていますが、日本人がなすべき再検証の突破口は七世紀の出来事ではないでしょうか。

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1. 日本書紀に書かれていること

7世紀までの天皇と朝廷の出来事を扱った史書に日本書紀(書紀と略称)があります。
わが国を万世一系の天皇家が治めてきたことを唐に示す目的で編纂されました。目的からすれば当然のことですが、書紀の随所に事実と異なる記述があると言われます。
様々な事情から事実を改変せざるを得なかったのでしょうから非難すべきではありません。後世の人が個々の改変個所について真実を復元すれば済むことです。
両者を見比べれば遍者や後代の改変者の意図が分かり貴重な歴史資料になります。

 
明治になり、白人優位思想に基づく帝国主義や共産主義から自衛するため、天皇を神とする神国日本の思想体系を構築し、不都合な事物を隠蔽・破壊・弾圧しました。
敗戦によりせめて江戸時代の状態に戻れればよかったのですが、戦後70年を経た今日でも戦時中の思想弾圧の後遺症が残っています。
戦後の拝金・拝物主義の高まりも間接的には影響しているようです。
外見が金ぴかで資産をもち上等な食物を摂っても立派な人にはなれないのです。

 

 

2. 背景

(1) 7世紀のわが国は未曾有の混乱状態にありました。国力の充実を背景に隋・唐が韓半島の国々を圧迫し始めたからです。
地理的に見て隋唐の脅威になりやすい高句麗が真っ先に標的になります。
地理的な関係から高句麗が存在する限り、隋も唐も安心できないからです。

 
(2) 標的にされた高句麗は正面からの戦いのほか、半島南部の百済や新羅との連携、さらには海を越えた倭国との連携を画策します。
もちろん、百済や新羅の出方によっては彼らとの戦争も選択肢にあります。
百済や新羅が唐の味方になったら挟み撃ちになりかねないからです。

 
(3) 高句麗の動きに対応して、百済も新羅も戦に備えると共に、倭国との連携策や倭国への移動(征服)も視野に入れた外交政策を展開します。

 
(4) 隋・唐や三韓に比べ倭国の統治は豪族の寄り合いで、大王家による祭祀と豪族の職掌分担による政経運営がなされていました。
このままでは対外情勢に的確に対応できないばかりか、他国の侵略から自国を守れないことに一部の人々が認識しはじめたようです。
隋・唐へ派遣されて帰国した人たちはその代表であり、それらの人々の教えを受けた人達、蘇我氏のように対外情勢を把握しやすい立場の人達などです。

 

 

3. 中臣氏・藤原氏

中臣氏については様々な説があります。さらに複雑にしているのは中臣家につながるという藤原鎌足と不比等の存在です。
二人にはまだ明らかにされていない真実があるのではないでしょうか。

 
(1) 中臣氏は新羅からの渡来人という説があります。同じ新羅系渡来人の物部氏と共に廃仏派だったのですが、崇仏戦争で物部中臣勢が蘇我氏に破れてからは蘇我氏と和し、蘇我氏と大王家の間をとりもつ役目を担っていました。
なお、百済王の仏教のすすめは純粋に宗教的な理由や善意からではなく、倭国にあける百済の地位を有利にする思惑があったとも考えられます。

 
(2) 乙己の変で鎌足は蘇我氏を倒す側に立ちます。それより前、神祇祭祀の官を継ぐように言われますが病を理由に断って飛鳥から退去しています。
既に蘇我氏打倒の思いを強くしていたのかもしれません。
なお、入鹿暗殺計画は独自のものではなく、新羅の要請または命令によるという説もあります。

 
(3) 中臣御食子は鎌足の義父です。鎌足が断った神祇祭祀の職は、父の死後は伯父の国子へ、国子の死後はその息子の国足がついでいます。
鎌足が就任を断ったのは御食子の実子でないことや、中臣氏が蘇我氏と緊密な関係にあったことが理由かもしれません。
それにしても、地を分けた人々を差し置いて鎌足に神祇伯を継がそうとする意図は何でしょうか。

 
(4) 中臣氏はともかく、鎌足と不比等の出自が明らかではありません。
藤原の血筋が長く日本の政治にかかわってきただけに、明らかにしなければなりません。

 

 

4 中大兄皇子・天智天皇

(1) 定説では舒明天皇と宝皇女(後の皇極天皇、斉明天皇)の子で、即位して天智天皇となった方です。
乙己の変では中臣鎌足と共に蘇我入鹿を倒した人物とされます。

 
それにしても、中の大兄とは何を意味するのでしょう。
足して2で割ったのでしょうか。

 
(2) 百済の皇子の余豊璋と宝皇女の子の葛城皇子を合成した人物だとする説があります。葛城は余豊璋の政治を支えていましたが、白村江の敗戦後に催された山科での薬草狩で(唐の手先に)殺害され、遺体も見つからずに終わったとされます。
この暗殺を認めるなら、後に天智天皇となったのは葛城皇子ではなく百済の皇子余豊璋です。

 

 

5. 大海人皇子

(1) 定説では大海人皇子は宝皇女の子で中大兄皇子の弟とされます。実際には大海人皇子の方が年上だったようです。
乙己の変には登場していないので、この頃には日本にはいなかった人物かも知れません。

 
(2) 以下のように、大海人皇子については幾つかの説があります。

 
(a) 宝皇女が百済にいた時に結婚した高向玄理の子の漢だとする説です。

 
(b) 新羅の皇子の金多遂とする説です。
孝徳大王の治世を督促するため大化三年に新羅から金春秋が乗り込んで来ます。
帰国後金春秋は新羅王(武列王)になって親唐政策をとります。
そして高句麗より先に百済を滅ぼすべきと献策します。
武列王はいずれ新羅が韓半島を統一することを胸に秘めています。金多遂は武列王が送り込んだ新羅王族で、帰国の記録がありません。
新羅は金多遂と孝徳天皇を通じて倭国の支配を目指します。
しかし、孝徳の統治が唐の工作や豪族の反対でうまく進まないため、百済勢力に大海人の名で加わったとされます。

 
(c) 高句麗でクーデターを起こして唐との戦いの備えを強化した重臣の淵蓋蘇文とする説もあります。高句麗の歴史では死亡とされていますが、それは日本への亡命を意味しているかもしれません。

 

 

6. 白村江の敗戦の処理

この戦そのものについても、敗戦後の処理についても様々な説があります。軍の派遣は高句麗への支援が目的だったとする説です。

 

 

6.1 敗戦処理

敗戦後の歩み

 

(1) 近江の日本国の誕生

白村江の敗戦後、余豊璋こと中大兄皇子は残存兵力と共に近江に大挙して移動し、百済からの多数の亡命者を受け入れる準備を進めます。
これには多くの官位新設も含まれます。百済の貴族を受け入れるためです。都も飛鳥から近江の大津に遷します。
都の建設に動員された民衆の不満は当然です。国名は日本国だとする説があります。
また、余豊璋は高句麗に逃れたとする説もありますかその意図が分かりませんし、高句麗から帰国したという説明もありません。

 

(2) 飛鳥の新倭国誕生

近江政権に直接の関係のない勢力は飛鳥に残りました。大海人皇子と中臣鎌足も同様です。
実は政権と言う観点では、乙己の変によって蘇我氏の倭国はなくなったのです。次の孝徳大王の政権は新羅の金春秋の指示もあって大和(やまと)の国となっています。
元皇極天皇とその子の葛城皇子もそこにいたのですが、孝徳天皇が死に、後を継いだ斉明天皇も死に、白村江の敗戦の後は息子の葛城皇子も死んだため、大和の国には大海人皇子と鎌足が残った状態になっていました。
新倭国とはこの状態にあった政権です。
当時は近江に日本国、飛鳥に新倭国が並存していたのです。

 

(3) 朝鮮式砦を築造

中大兄皇子は唐・新羅軍の侵攻に備えて瀬戸内の山地に朝鮮式砦を築造したほか、大宰府には大きい堤に水を満たした水城を造り、大宰府に近い大野や関門海峡を臨む長門などに城を作ります。
異説ではこれらの施設は唐・新羅の進駐軍によって築造されたとします。

 

6.2 唐・新羅占領軍の進駐

唐軍は筑紫の大宰府に筑紫都督府を設けて占領政策の実行を始めます。
政策は占領軍が直接執行するのではなく、既存勢力を使う間接統治の方式をとります。
飛鳥には新羅の王族が来て内政に干渉します。
さらには難波の寺には僧を常駐させ諜報活動を進めます。

 

 

7 壬申の乱

(1) 天智天皇が病に倒れて近江政権は危機に陥ります。中臣鎌足は既に死んでおり、近江政権と飛鳥政権とを調整する人がいません。天智天皇は大海人皇子を呼んで後事を託そうとしますが断られます。

 
(2) 定説では、大友皇子(天智天皇の子)を大王とする近江朝廷と大海人皇子(天智天皇の弟と言われる)との政権をかけた争いと言われます。

 
(3) 異説によれば、筑紫都督府に駐留した唐の勢力と新羅の軍事勢力が大友皇子の近江朝廷を打倒するための戦だったようです。
近江政権の陣営には唐勢力による懐柔と寝返り工作がなされたとされます。

 
(4) さらに異説では、壬申の乱は飛鳥の政治勢力の打倒を唐・新羅占領軍が意図したもので、最後まで戦った蘇我一族は敗れて関東に逃れましたが、他の勢力は占領軍の鮮やかな戦いぶりをみて雪崩のように寝返ったようです。
これが事実なら大海人の政権は唐・新羅の傀儡政権にならざるを得ないでしょう。

 

 

8. 天武天皇の政治

(1) 壬申の乱の後で大海人皇子が天武天皇として即位します。占領政策は続いているため唐の干渉が強く、天武の政権は一種の傀儡政権にすぎずかったようです。
政権には左右の大臣をおかず天武の親政の形式にします。唐の指示によると思われます。

 
(2) 天武は唐の干渉を排除しようとして政策の上で様々な抵抗を試みたようです。官人を含めた武力の強化、信濃への都の移設計画、日本古来の神祇の復活などです。

 
(3) 唐は撹乱政策を実行し社会の不安を作り出します。寺院の火災や流言などです。

 
(4) 日本各地に常駐する唐の軍事勢力の殲滅を企てますが、事前に察知されて押さえ込まれます。
当然天武天皇や息子の大津皇子の責任が追求されます。

 

 

9. 天武天皇の死

(1) 定説では病死とされ、天武天皇のあとは持統天皇が継ぎます。

 
(2) 暗殺説もあります。実の子である大津皇子が唐の指示で殺害に及んだようです。
危険を感じて天武天皇は北陸方面への逃亡を試みますが、その途中で殺害されたようです。大津皇子の母は天智天皇の娘で、幼少の頃から天智天皇に可愛いがられたようです。わが子とはいえ天武にとっては天智天皇側の人のように思えたのでしょう。
暗殺は唐の指示だとする説があります。

 

 

10. 困難を乗り越えてきた日本

7世紀の日本列島は北東アジアの争乱の影響で大きな痛手を負いました。第2次世界大戦の敗北に匹敵する国難と言って過言でないでしょう。
百済からの多量の亡命者の受け入れ、高句麗からの亡命者の受け入れ、白村江の戦いで敗北したため、勝者の唐・新羅軍の進駐のほか、様々な内政干渉があった可能性があります。
漢字以外の文字で書かれた文書の棄却もその1つです。国が発展する途上で様々な困難に遭遇することは止むを得ないことです。
大切なことはそれらの困難を試練や教訓として前に進むことです。

 
本稿では七世紀の主要な人物や出来事に関する様々な説を紹介しました。
信じるか信じないかは各人によります。
様々な見解や説の存在を認めながら、真実の歴史を根気よく追究することが大切です。
日本人の基層は外来の支配階級ではなく新石器時代から列島に住んできた権力慾のない人々です。

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カテゴリ: その他

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